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アンデパンダンて、いったい何なん
前回の記事で書いた「第51回 現代美術ー茨木 2024展」は、先日無事に終了いたしました。お越しくださった皆様、関係者の皆様ありがとうございました。
現在私は、この展覧会の実行員というのをやっておりまして、アンデパンダンを説明する時に「無審査で出せる展覧会」とついつい言ってしまうのですが、果たしてそれだけで良いのでしょうか。多分、それで間違いではないのですが、何となく核になる部分が足りていない気がしています。
ということでアンデパンダンて何なん、と少し考えてみます。
アンデパンダン
Indépendants(フランス語)
independent(英語)
辞書的な単語の意味としては、独立とか、自立みたいなニュアンスなんですかね。
美術史的には、19世紀のフランスで、審査のある展覧会に対して、無審査で自由に出品できる展覧会として始まった、と言われています。
つまり、既存の価値観に対するアンチテーゼのようなものが根っこにあるのではないでしょうか。日本でも戦後くらい(?)にアンデパンダンと言われる展覧会が盛り上がっていたらしいです。
「現代の日本において、アンデパンダンが何からの独立なのか」、それを抜きにして単に「無審査で出せる展覧会」として説明するだけでは足りない感じがするのはここだと思います。
アンデパンダンについて考える時、かつてのアンデパンダンはこんな感じだったよー、とかとても重要なことではあるのですが、一方で、だからそれがアンデパンダンの本来のあるべき姿だ、と思い込むのも危険です。
美術の歴史を振り返ると、何かしらの力(権威、確立された価値観)に対抗して、新たな価値が生み出されても、いずれはそれが主流となり、次の時代にはそれがすでに確立された価値観としてドーンと居座っている、ということの繰り返しな気がします。
つまり、「アンデパンダンとはこういうものだ」という確立された価値観はすでに、それ自体が乗り越えるべき壁(倒すべき敵)かもしれないのです。
さらには、何かを倒すとか乗り越えるとか、もはやそういうこととも違うかもしれません。
とはいえ、同じアンデパンダンを名乗る以上、全くの別物、というわけにもいきません。現代においてアンデパンダンとは何なのか、今一度考える必要がありそうです。
現状として。
無審査であること、これは外せない条件です。
ここを否定すると、おそらくアンデパンダンを名乗る意味はなくなると思います。アンデパンダンを名乗らずに、別の方法でアンデパンダンを乗り越える(否定する)ことは容易いです。
無審査であることの意味、これは参加する人それぞれにとって違うかもしれません。
前回書いたように、茨木市のアンデパンダン展には、キャリアが様々な人が参加しています。ベテラン作家など、キャリアがある作家は決して展示場所に困っているわけではないはずです。ここにしか出せない、というわけではない人がなぜアンデパンダンに出すのか。アンデパンダンに出すことが自身の立場の主張になる人もいるでしょうし、新たな作品の実験の場とする場合もあるかもしれません。あるいは、肩書を抜きにした雑多な場で、自身の作品がどのように見えるのか、挑戦者の気持ちで臨んでいるかもしれません。
一方で、まだキャリアの浅い作家からすると、貴重な出品の場ということもあると思います。
はたまた、作家とか作品とか、そんなことも気にせずに、もっと純粋にただただ作ったものを見てほしい、そんな感覚で参加している人もいるかもしれません。
それらがごちゃっと混在している場。それが現状でしょうか。
かつてのアンデパンダンのように、大きな意味で皆が同じ方向を向いている感じとは全然違うかもしれません。
現在の日本において、この「現代美術ー茨木」が果たす役割とは、、、
サイズ等の物理的な制約があるものの、基本的には自由に出品できる場、様々な思いの受け皿的な役割としての場、さらには会場がおにクルになったことで、来場者(鑑賞者)に対しても開かれている場、というように様々な人と作品との交流の場として機能して欲しいと思います。
とまあ色々考えてみるものの、結局のところ、アンデパンダンて、いったい何なん。からはまだ抜け出せそうにありません。