死産一か月-体調、愛着障害について
死産から一か月が経過しました。
振り返るとあっという間だけど、長い一か月でした。
現時点での心境の変化です。死産でメンタル面が落ちたことから、自分の生い立ちによる辛さに至った記録です。
体調について
11/28に死産して、12/25のクリスマスに生理がきました。
クリスマスプレゼントだ〜!と嬉しくなりました。生理が嬉しい日がくるとは。
ただ、量はいつもの四分の一以下。実際はわからないですが、無排卵の時は生理が軽いらしいので、そういうことかなあと思います。
死産後ダラダラと少量の出血が続いていたので生理と区別がつくか不安でしたが、朝起きた時の鈍い痛みと血が流れる感覚があったので、これは生理認定でよいと思います。
二週間ほど前に病院で処方された子宮収縮の薬も無事のみ終わりました。年明けで再度健診なのでうまく治っていることを祈ります。
風疹のワクチンによる8週間の避妊期間の兼ね合いで、妊活再開は3月になりそうです。2月いっぱいまでのんびり過ごそうと思います。
妊娠していない体のなんて気楽なことか。何を食べてもいいし、何を食べても吐いたりしない、犬の散歩の途中に休憩もいらない。仕事している時は、「体調が悪いけど働くしかない!」思い込んでいましたが、あれはしっかり休んで良い体調だったと思います。
次またつわりか…と暗い気持ちにはなりますが、心構えして迎えられるので楽しみでもあります。
メンタルと、愛着障害について
死産後、二週間くらいはかなり落ち込んでいました。
死産になってしまった現実自体は幸いにも、noteにまとめることなどで自分のなかで整理がついて、その事実で苦しくはならなかったです。不思議にも。
ただ、陽性発覚と前後して妊娠報告を受けた弟夫婦がおそらく無事に妊娠継続できていることに対して”ずるい”という感情が湧いてつらくなったり、
寝る前などに過去のヒヤリ(なにか間違っていたら事故ってたかも、みたいな瞬間)を思い出して、眠れなくなったり、車の運転が怖くて焦燥感に駆られたり、
とにかく夜寝る前に特にしんどくなって、以下みたいな感情になって横になっていられないほど心臓のあたりがしんどくなったり……。
とにかく、死産という衝撃的な経験を経てメンタルが底をついたようで、普段から存在しているありとあらゆるネガティブな感情が湧きだして辛かったです。
暗い感情が沸々と湧くようになった
死産後、強制の産後休暇で暇を持て余し、勉強しようと問題を解いているときでさえふつふつと色んなマイナス感情がこみ上げてくるので無視するということもできず、ノートに感情を書き出していました。
特に弟たちへの”ずるい”という感情がきっかけとなって、なぜこんなことを弟に思うのだろう、特段ずるくもないのに…という考えから、母親のせいなのでは、と思い至りました。
昔から、母は弟に甘くて「ずるい」という感情があったのを思い出しました。私は許されなかったことが、弟は易々と許されるのを見て、どれだけ暗い気持ちになったか。
そこから、母親にされて嫌だったことの記憶をずるずると引き出してしまい、そして開けた記憶の蓋をうまく閉じることもできず、ただ母親への愛憎いりまじった気持ちが残されてしまいました。
母との確執 -死産から火葬までの心情観察日記④|イッチ 30歳/一生仕事したい女
そこから、「やはりこれは解決すべき事項だ」と思い、カウンセリングを予約しました。もとから精神医学や心理学などに興味があり、私が直面している問題もそういった問題に近いのではと思っていたものの、仕事の忙しさや、現実の問題にはなっていないことなどを理由に、解決すべき問題としていませんでした。なんなら、母への思いは解決した、とさえ思っていたかもしれません。
カウンセリングで母との確執を話した
初回のカウンセリングでは、「母との関係」を話したいとして予約しました。自分でも「解決すべき事項だ」と感じていたものの、いったい何を解決したいのかわかっていなかったので、過去の整理をするつもりで話を聞いてもらいました。
noteと違うのは、相槌や「なぜ?」といった投げかけが自分以外の人間から返ってくること。それだけで話すことが進みました。
母親が過干渉で、中学生のころに携帯を見られその内容を友人の親に言われたこと、机の上に置いてあるノートなどは見られていたこと、自分の部屋ができたのは高校生の頃だったが扉を閉めてはいけなかったこと、高校の頃は部屋のごみ箱を漁られてレシートで行動を把握されていたこと、なにか反抗すると逆切れされて怒鳴られていたことなどを話しました。
また、一方で母親自身の背景で幼少期に父親を亡くし、幼稚園の年齢くらいから預けられて母の母親(私にとっての祖母)が仕事に出ていたこと、またそれが母親の考え方などに大きく影響しているだろう、と私が考えていることも話しました。
そして、関係にしんどくなった私は高校の頃には家を早く出たいと思いはじめ、社会人になったその日から親元を離れ一人暮らしをし、転職のタイミングでさらに離れて上京してきました、と。
カウンセラーからは、「過干渉な親への対応としてイッチさんはやるべきことをできている。それは褒めてあげてください」と言われて、少し安心しました。場合によっては共依存のようになってしまうこともあるそうです。
一番感情が高ぶって涙してしまったのは、私自身の母子手帳の話でした。
「私が妊娠して、母子手帳を書く立場になったときに、改めて自分の出生時の母子手帳を見たらに辛くなった。なんでこんなことになってしまったんだろう。」と。
私が子に向けて母子手帳や、エコーアルバムに日記を書いたとき、これからどうなるか分からないし不安も多いけれど、生まれてきた子が大きくなった時に見て「自分は望まれてここにいる」と思えるように記録を残そう、と温かい、いうなれば愛を持って書いていました。
母が書いた私の母子手帳には、かわいい、愛しいなどのウェットな言葉こそ書かれていないものの、細かく記録が残されており、子どもをいかに大切にしていたのかを推察できる内容でした。
母も私とおなじだったのではないか?幼少期の写真が残っていて大切にされているように、過干渉も愛ゆえだったのではないか、と。
でも私はつらい思いをして、よみがえる母親との思い出もつらいものばかりで、「産んでくれてありがとう」と思えない。
私と同じだったのなら、母は愛をもって私を望んだのではないのか?なのに、私が嫌がることを平気でできたのか。嫌がるそぶりを見て笑えるのか。なぜ、こんな関係になってしまったのか。
そんな思いがあふれて涙が流れました。
カウンセラーと話をしないと、この事実に私がそこまで辛い感情を抱いていたとは、自分で気づけませんでした。
カウンセリングを終えて
初回で母との過去は整理がついていて、過干渉な親との距離の取り方もお手本のようにできていることまでわかりました。
ただ、何かまだ喉の奥がつかえたような感覚だったので、次回の予約もお願いします、と言って帰路につきました。
話したことですっきりしたものの、何が解決していないのか。
考えた結果、「過去に何をされたのかの整理」と「現在これ以上傷つけられないための対策」はできているが、「過去にされたことの影響で現在発生している問題の整理」ができていないのでは、と気づきました。
かといって、今明らかに問題になっている点といっても、母親へのネガティブな感情などだけだったので、手がかりがないため、”母との確執”などの具体的なKWで検索を繰り返していました。
有名人へのインタビューや、毒親などの記事を読んでいると、毒親、アダルトチルドレンなどの記事・書籍にもたどり着きましたが、これは私は何度か通った道だったのであまり参考になりませんでした。
それでも検索を繰り返していると「愛着障害」というものにたどり着きました。
愛着障害の本では自分の辛さがそのまま語られていた
本来、子どもの症状につかう言葉とのことですが、大人も愛着障害をもったまま育って困難を抱える人がいる、という本がありました。
愛着障害 (光文社新書) 新書 – 2011/9/16 岡田 尊司 (著)
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私は、この本に救われました。
私が生来この性質なのだ、と思っていた性質が、母との関係の問題に由来していると複数気付けました。いくつか挙げてみます。
ストレスに脆く、うつや心身症になりやすい
いままでメンタルを病んだことはないものの、たまたま病んでいないだけで、線はすぐそこにある、と感じるくらい近いと思っていました。
些細な、かつ相手は何とも思っていないであろうことでも精神的に辛くなりがちでした。
これが、ヒステリックでいつ怒るか分からない母親の顔色を幼少期から見続けることでついた能力だときづきました。
こどもが苦手なこと
本書には愛着障害をもつ文豪が多いと事例に記載されており、彼らが子をうまく養育できなかったり、子をもうけなかったりした事実がありました。
私も、30になるまで妊娠・出産に向き合えませんでした。妊活を始めた時も、社会的な圧力や体の限界がある事実に迫られたので決断しており、真実の意味では向き合えていなかったと思います。
でも、同い年で早くに子供をもうけた人に、なぜか羨望の気持ちを抱いていました(自分も結婚していていつでも妊活すればいいのに、ピルを飲み続けていたにも関わらず)。
そして他人のこどもはユニコーンを見ているような、ぼんやりした気持ちで眺めていました。
子どもをかわいいと思ったことはありません。
欲しいと思うような、思わないような。人生の経験の一つとして子をもうけることには前向きなものの、持つことで発生しうるネガティブなことばかり気になってほしいと思えませんでした。それでも、子どもができても働き続けられる環境をそろえてから子どもを作りたい、と思ってキャリアを形成していました。常にアンビヴァレントな状態でした。
本を読んだんことで、機能不全な家族で育ったことで、血の分身をもつことを恐れていたのか、と気づけました。同時に、愛されてわがままに無邪気にふるまう子どもたちに、自分が得られなかったものを持っている、と羨望の眼差しを向けていたのだろうとも。
人を笑わせることに意義を見出す
笑わせることだけに限りませんが、自分が道化を演じて笑わせたり、役に立つことを証明することで自身の価値を保っていました。誰かの役に立つことだけに自分の存在価値を見出していました。
母親の愛に対価が必要だったので、愛を得るために常にいい子であろう、求められる子であろうとしていたこと、また価値がなければ愛をもらう価値がない存在だ、と感じていたことが影響したのだと思います。
誇大自己と大きな願望
昔から”偉い人になりたい”と思っていました。
もっと昔は”小説家になって世に名を挙げたい”と思っていました。
自分が人とは違う存在だと思いたくて、なんとかすごい人になろうとここまで努力してきました。大学は、中学などで私をバカにしてきた人を見返してやりたい、という気持ちだけで平凡な高校から国立に受かりました。直近も経営者になりたい、世の中にダイレクトに役に立つような業績を残したい、と考えていました。
これは自己顕示性の強さであり、成長の過程で安心な場所を得られなかったことで自己愛が必要以上に大きくなってしまった結果、「自分はできる人間なのだからもっとすごいことを成し遂げたい」という漠然とした万能的な未来を描いていたのだと思います。
幼いころの不足を、夫との関係で取り戻していた
愛着障害の人が回復する過程では、赤ちゃん返り的な、幼いころの状態や問題を児童期→青春期→青年期など順を追って再現するらしいです。
私は、これを夫に頼っていたように思います。
付き合って数か月の時、夫に抱きしめられているときに涙がとまらなくなりました。ぼんやりとした記憶で「自分がこんなに愛されていいのかな」とつぶやいた記憶があります。母親に抱きしめられた記憶がない部分を、夫に頼って埋めていたのだと思いました。
私自身に自覚がなかったのだから夫も私の事情なんて知らないはずなのに、黙って受け入れてくれたことで、ずいぶん傷が癒えたのかなと思います。
(子どもを持ってもよいかもと思えたのも、こんな夫だからなのだろう。)
複雑性PTSDだったのかもしれない(別の書籍からの引用)
愛着障害と一緒に語られることに、複雑性PTSDがあります。
先に紹介した本と同じ作者が、愛着障害と複雑性PTSDの本を後年執筆しているように、切って切れない関係にあります。
愛着障害と複雑性PTSD 生きづらさと心の傷をのりこえる (SB新書 667) 新書 – 2024/9/7 岡田尊司 (著)
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私は、世間で明らかな暴力やネグレクトなどの虐待は受けていませんでした。
それでも、気に入らない回答をすると皿をシンクに叩きつけたり、怒鳴りつけたり、暴言を吐いたり、父や祖母や知人の悪口を話すような不安定な母は、私にとって少なからず心の傷になっていたのかと思います。
少し話はそれますが、仕事をはじめてから、自分はADHDなのでは?と思うようになり、5年ほど前にWAIS-Ⅳという知能検査を受けたことがありました。
言語理解指数(Verbal Comprehension Index: VCI)
知覚推理指数(Perceptual Reasoning Index: PRI)
作業記憶指数(Working Memory Index: WMI)
処理速度指数(Processing Speed Index: PSI)
という、四つの指標が結果としてわかります。
全体の結果では私は障害といわれるような数字ではなく、何なら高IQでした。ただ、私はこのうちWMIが他の指標と比較すると20ほど低く出ていました。※ちなみに、この数字が悪かったから○○障害、という検査でもありません。
WMIは「ワーキングメモリ」といって、情報を短期間記憶し、その情報を利用して課題を解決する能力らしいです。
複雑性PTSDを持つ人はこの値が低くなりやすいらしいです。処理しきれない記憶を冷凍保存したままのため、そちらに容量が割かれてしまうとのこと。
私は、生まれ持ってこの数字が低いから結果的に日常の不都合が発生する、と思っていたのですが、過去の記憶を自分がうまく処理できていないが故にこの数字が低く出ている、と思うと腑に落ちました。
また、同じ悪夢を繰り返しみることもあります。
母親は直接的に出てこないのですが、中学の頃の部活で自分が同じ失敗をする夢、車のブレーキが利かない夢、電車で線路に降りる夢、何かに遅れてしまう夢などを見ます。
これは、幼少期から安心できる場所がなく、常に不安に晒されていたことによって、不安障害的が深層心理では強いのだと思います。
死産後に車が怖くなったのは、メンタルが落ちたことで押し込めて夢で終わっていた不安が強くなってしまったのだと思います。
「愛着障害」という名を与えることで、過去の再整理ができた
小中学でこじれた人間関係を作ってしまった私は、過去を思い出すたびに、今でも羞恥心や罪悪感などからストレスを感じていました。
それが、母親との愛着形成で問題があり、機能不全な家族だったことで、自らの社会性がうまく育たなかったことによる、と理由が分かったことで、過去への強い負の感情が幾分かマシになりました。
今までは「私が悪かった」「なんであんなことをしたのだろう」と強い後悔のようなものもあってたまに叫ぶくらいでしたが、少し落ち着いて「そりゃ親との人間関係が歪なら、思春期前後は外との関係も歪になってしまうでしょ」「迷惑かけた相手には申し訳ないな」と考えられるようになりました。
また、あわせてアダルトチルドレンに向けた認知療法的なワークブックも進め、母親への思いを再整理するなど、少し落ち着けたように思います。
書いている途中で、母との関係がこじれて無愛想になった私に「昔はかわいかったのに」などと放言した父親に腹が立ってきたこともあり、何もかも完全に昇華できたわけではないですが……。
今後の自分とどう向き合うのか
正直そこまできれいには整理できていません。
自分の辛さの原因が愛着障害だからとわかったところで、辛さや問題が消滅するわけではなかったです。
それでも、辛さは軽くなりました。
私が妊娠に完全に前向きになれなかった過去の理由を見つけられたので、次の妊娠に向けてはフラットに受け止められそうです。
そして、今回自分自身のことをここまで見つめられる時間が作れたのは、死産して8週間もの産後休暇になったからでした。
染色体異常の子どもができたことに理由なんてなくて、命の仕組み上、一定の割合でそういうことが起きるだけです。運命でも何もなく、ただ、それだけです。
それでも、このような機会を与えてくれたことを感謝したいです。
三十而立、だと思いました。
30にして立つ。
私が私としてここまで生きてきたこと、これからどう生きていくかという価値観を変え、支える出来事と時間でした。
休暇はまだ残り半分も時間があるので、やりたいことをやりつつ、仕事の勉強もしたりと進めていきたいと思います。
※この文章もやりたいことの一つ「PCを買う」を実現したら、スマホよりも圧倒的に文章が書きやすくてかなりの長文になってしまいました。
年明けの受診で体調も万全になっていますように。