バタフライ・エフェクト・ビリーバー
むんむん。
むんむん無気力。
5日に4日は無気力です。
何もしたくないけど、何もしたくないときに出てくる誰かに見られてるような罪悪感から離れることもできず、うやむやとしたまま、自分の欲に従うでもなくちゃんと無気力を克服しようとするでもなく、ただただなんかやりたいことでもないけど何も考えずともできるようなことをえんえんとやってしまって止まらなくなって、いやな気持ちになるけど、それを止めてしまうといやな気持ちになるまでに潰した時間を受け止めないといけなくなるのでよりえんえんと潰しに潰してぺちゃぺちゃになるまでやめられなくなってしまう。
基本的に虚無主義なので意味も無意味もないと思ってるけど、こういう時間はたしかに「無駄」と呼んでもいいかもしれないと思った。
起きれるだけ起きてたいし、寝れるだけ寝ていたい。でも同時に流されていく自分を誰かに止めてほしいとも思っている。
人生に対して無気力になっているのは、もう子どもの頃みたいに努力とか価値観とか、そういう幻想を信じきることから脱却したから。じゃあ欲に溺れて生きてたっていいじゃないかと思うけど、そういう自分を他人はどこまで許容してくれるのか。いっそ最初からクズレッテルを貼られていたら失望されることに悲観することもなかったんじゃないかと思っちゃったり。
結局でも最後は、自分が自分に失望したくないだけなんじゃないかとも思っちゃったり。
どこまで行っても他人の目。自分の価値観。
自分の価値観と他人の目。
苦手なこと。
他人からの期待と、他人の価値観で自分を評価されること。
どんなに他者から認められても、それは自分じゃなくて自分の虚栄に対してと思ってしまう。
あっけらかんとしていたいね。
バタフライ・エフェクト
些細な行動や選択が未来の結果に大きく影響するというのを割と信じてしまう。
小学生のときから、この階段を上るのは右足スタートがいいのか左足からがいいのかとか、今振り返るのは右ターンがいいか左ターンがいいかとか、この電車は三号車と四号車のどっちがいいかとか、なんかそういう本当にどうでもよさそうなことを「この選択が自分の今後の人生を左右するんじゃないか」と考えてしまって、でもどっちが正解か分からないので、階段の一段目を右足で踏んだあとに「やっぱり今は左足だったかも」と思って階段を降りて左足から踏み直したりして、そうすると「踏み直したことによって、踏み直さずに左足を出したパターンとはまた変わってしまった」と考えてしまったり。
どっちか迷って歩きながらうだうだしたり「今回は左足かも」と思って、左足から階段を踏めるように無駄なステップを踏んだり(歩幅合わなかったときの跳び箱みたいに)しちゃうから、この思考のせいでだいぶ挙動不審度が増してしまっている。
現実というのは、無数の因と無数の果で成り立っていると思っていて、一つの「果」には無数の「因」が結びついているし、その「因」もまた無数の「因」の「果」として存在している。
そうなのだとしたら、一つの大きな「因」が「果」を作ってるわけじゃなくて、ちっちゃい因が何万何億と積み重なってでかい果になって、そのでかい果がまた何万何億と積み重なってもっとでかい「果」になってしまうんだろうと思って、そう思うと自分の選択の一つ一つが重大な結果を引き起こしそうで落ち着かなくなる。
社会は、重大な果を見つけたとき、それを引き起こした因を見つけ出そうとする。
それが、本当はたくさんのちっちゃい因だったとしても、何か一つの大きな因のせいだということにして、それを追い出そうとする。
なんででしょうね。
その方が、安心だからでしょうね。
その果を引き起こさないためには、因を葬ることが必要で、その因はわかりやすい方が、それを牢に閉じ込めておけば果は起こらないと安心しておけるから、ちっちゃい無数の因なんて分かりにくくて、全部を葬れないから、1つを膨らませて、でも同じようなことは続いていて、それでも1つの因を特定することに注力してしまう。
社会ですね。
すん。