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内側で生きる人、外側で生きる人。

時の流れと一緒に400mトラックを走っていたらすでに5,6周くらい追い抜かれている状態なくらい置いていかれてます。先延ばしできるものもできないものも先延ばしにして今を生きています。
ひえ〜

内側で生きる人、外側で生きる人。


人と話すとき、その人が内側で考えている人なのか外側で考えている人なのかを一番気にしているかもしれない。
何か創作物を見るときもそうで、例えば映画を観るときもその作品が作者の内側から作ったものか外側からなのかを気にしちゃっている。
(そして大概内側クリエイターの人は人物先行で、外側クリエイターはストーリー先行で作っている気がする)

流行りのMBTIで言えば最初のアルファベットがI寄りの人かE寄りの人かを考えてしまうし、私はドIのド内向型なので、ゴリゴリ外向の人がどういう世界を見ていてどうやって考えているのかを伺ってしまうし、時としてそういう人たちの考え方が理解できなかったり、反対に私の見えているものを伝えようとも伝わっていないと感じることもある。

私はド内向かつアイデンティティも自己愛も強火すぎて、自分が自分でならなければならないといつも思ってしまうし、自分の思考が自分の本体だと思っているし、ものを作るときにそれが自分から出てきたものではなく外にあるものの模倣だと感じた瞬間にとっても無気力になってしまうし、自己のない創作に対して「なんだこれは」と思ってしまうときがある。

これは、私の色眼鏡で見ているということを前提に言いますが、外側からものを考えて意見を言っている人について、それって本当にその人の意見なのかなと思って「それはあなたの意見じゃなくて『社会的に』言われてるだけのことなんじゃないのか?なんで自分で考えないんだろう?自分の考えに責任を取りたくないから『外側の意見=自分の意見』みたいに言っているんじゃないか?」って思っちゃうことがあった。結構あった。多々あった。
でも多分それは思考のベクトルが違うだけで、きっと私が「この人には伝わってない」と思うのと同じように私はそういう人たちが見て考えている部分が見えてないんだなと思う。

そもそも人間は人間である時点でそんなに頭も良くないし、見えている部分はこの世界の本当に極小の部分であると思っている。
そんでその中でひとりひとりの見えている部分がちょっとずつずれていて、人は常に自分が「分かっている側」でいたくなるけど、「分かっている側」と「分かっていない側」に分けられるほど世界は狭くも荒くもないわけで、自分が見えてない世界というのは信じられないくらい広大なんだと、思うわけです。虚しいですが、謙虚に生きたいです。


許す、許さない。

いやーもう。
ずっと考えつづけてしまう。

自分が許せないことを、価値観は人それぞれだから許そうと努めるのがいいのか、自分がそちら側に言ってしまうのを許さないためにも断固として許さないべきなのか。いやーもう。

この前電車に乗っていて、イヤホンも忘れてスマホの充電も切れて本も持ってきてなくて、ただただぼーっと1時間以上過ごしていたときに思ったのだが、「許す」「許さない」なんて本当は存在しないんじゃないのか。
「許してください」と言われて許せるのだったら、とっくに許しているわけで、それは意志としての「許す」「許さない」ではなく感情としての「許せる」「許せない」で存在しているんじゃないのか。

子どもの頃を隙あらば思い出してしまうけど、許して元通りになるなら何度も許そうと思った。
というか元通りになりたいと思っていた。出来事は消えないにせよ、苦しみも恨みつらみもなくしたいと思った。それはでも別に、許そうと思って簡単になくなるものではない。「許します」と言えば相手はそれで終わりになるかもしれないけど、こちら側はずっとそのままだし、今も消えないし、あったことはなかったことにはならないし、多分一生引きずっていく。

それは「許さない」ではなく、どう頑張っても、意思として「許す」を導きたくてもそれができないから「許せない」になってしまう。

もし、自分の理念に沿わない行動や意見があったとして、それを心の中で「許せない」フォルダに入れておく分には問題ないのだが、それが膨らんで自分の中に留めておけなくなったときに、外に表出してしまうこともあって、それを「許せない」と表明するときに、もしかしたら相手の価値観を傷つけているわけで、だから本当は自分の中だけに存在させておけばいいんだろうけど、でも自分の内部では処理しきれなくなったときにどうやって対応したらいいんだろう。
「許せなさ」を分かってもらいたいときがあるし、許せない部分の表明は自分の価値観の表明と紐づいていて、価値観を外に出すときに許せない部分がくっついて出てきてしまうこともある。

もう本当に、周りくどい説明でごめんですが、そういうことなのです。

分からないです。
本当に。

でも、許せないを表明するハードルを生きていく中で下げすぎて、何でもかんでも否定する人間にはなりたくなくて、だからちゃんと、自分の中に留めておける限りは留めておきたい。

強くなりたいと思う。できる限り色々なものを許したいけど、譲れないものを譲りたくないし、とりあえず素晴らしい人間になりたいです。


必要な「無関心」を持って生きる。

言い訳のようにね、ずっと考えつづけているんですが。
この記事つい先日書いたと思ってたけど掘り返したら書いたの3年半も前だった。時の流れと一緒に400mトラックを走っていたのに…

とにかく全てが解決することはなくて、どこかで誰か、多くの人が常に傷ついているし、苦しんでいるし、「社会問題」と一言に言っても、その一つ一つは本当に残酷なわけで、それでもゆっくり、社会はちょっとずついい方向に進んでいると信じているが、解決するためにその残酷な物事を直視しなければならなくなるわけで、私は原爆ドームにも行けなければ動物の保護施設にも行けなくて、辛くて、それを見ること自体が耐えられなくて、何ならニュース映像もまともに見られず、世界のほとんどの問題から目を背けて触れないように生きている。全部無くなればいいのにと思う。
社会問題に関心を持つことは大事だと思う。問題解決のためにはまず現状の把握が必要だと思っている。

でもその現状を全て直視したとき、向き合ったときに人は正常な心持ちでいられるのか。壊れてしまうと思う。苦しみと同時に自分の無力さを知る。目の前でこんなにも残酷な出来事が起こったまま、助けられない自分自身こそがどれだけ残酷かと思う。

毎日誰かが屋上から飛び降りたり、電車に飛び込んだりしている。
それは突然起こることではなくて、その日に至る長い苦しみの日々を生きた結果である。

それに対して傍観してるだけの自分と、その人たちより恵まれてしまった自分の人生を受け入れてしまっていいのか悩んだり、それでもそういう苦しみに寄り添えるほど強い人間じゃない。

結局自分が現実を直視できないというエゴなのだが、誰かが救おうとしてみんなを救えるほど社会が簡単だったり人間がスーパーマンだったりしたらいいのだが。

強くなりたいけど優しくもありたい。
自分が見捨てるしかできないことを自分が見捨てているという選択をしているということだけは、ちゃんと自分の心が壊れない限り自覚していようと思う。


理想主義者と現実主義者の「諦め」。

会社の人に「この歳になると諦めなきゃいけないことも増えてきました」みたいなことを話したら「まだこれからだよ」みたいなことを言われた。

そうなのだろうか。

私はオリンピック選手になることも想像するし哲学者や数学者になることも想像するし、俳優になったり、アーティストになったり、いろいろな生き方を考えてしまう。

その全てを選択することはできない。
何かを選び取ったとき、それ以外の全てを諦めている。
私はそれを選択したとき、同時に私がそれ以外の全てを選択しないということを選択している。

確かに選択肢はたくさん残されているかもしれない。選択肢がたくさんあるほど、何かを選ぶときに諦めるものの数が増えていく。

無限の中から1つ選んだとしたら、諦めた選択肢の数は無限−1です。無限です。

何を今さらな話なんですが、選ぼうとして選べなかったほうの「諦め」ではなく、今想像できる可能性が、何かを選択したときに選べなくなってしまうほうの「諦め」で、それは理想主義的な人間が現実的な選択を迫られた時の諦めなんだろうなと思った。

以上です。

余談です。
GW明けに祖母がお空に行きました。

他のおじいちゃんおばあちゃんは私が生まれる前や小学生の頃に亡くなったので、最後のおばあちゃん。

私は自分の死後に全くと言っていいほど執着がないので、自分のお葬式もお墓も必要ないと思っているし、生きている牛や豚を殺して食べるくらいなら死んじゃった私の肉をお食べになればいかが?と思うときもあるが、やっぱり生き残った側として見たときに、その死体に思考のアイデンティティはなくなっているのかもしれないが、肉体としてのアイデンティティが残っている以上、簡単なことはできないなと思う。

路上で轢かれている動物の死体を見たときに、
やるせない気持ちになる。
一匹で生きて一匹で死んだのだろうかと思う。

それでも何もすることはできなくて、結局傍観者になるんだけど、死んだあとに優しくしたところでと思うんだけど。

自分はなんでしっかり生きてんのかなとか、たくさんの命を奪ったり、死を傍観したりしながら、生きることとか幸せになることを望んでいいのかとか、安直に思ってしまうことがあるけど、皆が、周りの皆が生きてなかったら自分も生きられないかもしれないけど、皆が生きてるから自分も生きたいと思う。

幸せを望めるようになりたい。
幸せを望むことに罪悪感を抱かないような現実が訪れるといい。

世界平和の中でゆるく生きたい。


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