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はたらきはじめて1年が経った。
見出し画像がかわいいね。
最初の会社に入社したのが去年の8/1だったので、ちょうど1年が経ちました。
とはいえ最初の1ヶ月は外部研修で、最初の現場は10月入りだったので、1年働きましたと言われると微妙だが、いや色々ありましたね。
ご時世もあって、1年てこんなスピードで進むのかって思うくらい一瞬だったけど、もはや走馬灯だけど、なんか色々あったわ。
なんか自分この1年ものすごいスピードでいろんなものを始めたり辞めたりして、現実なのかなんなのかわからなくなっている部分もある。
みんなそんなもんなのか、まじか的なことなのか分からないのだが、今までこの方将来の夢というものを持ったことがない。
というか、未来を想像する能力がどうやら無いらしい。
小学生の頃によくあるサッカー選手になるだとか、お花屋さんになるだとかも、みんなが言ってるからみんなも言ってるんじゃね?みたいなことを思っていた。
小学生ってなんか無駄に将来何になりたい?って聞かれがちだから、何かそういうものを持っていないといけないような気持ちもあって、小中学校の親友だった子が小学3年生くらいの時に「科学者になってドラえもんつくる!」ってよく言ってたからそれを真似して(パクって)いた。
「自分が大人になる」っていう想像がどうにもできなくて、「将来」という単語を聞いた時に浮かんでくる映像があったのだが、たぶん「石の上にも3年」の挿絵みたいなので見た、仙人みたいなおじいちゃんがでかい岩見たいのに腰掛けてる絵が私の小学生の時の精一杯の「将来像」だった。
人生短距離走人間なので、1年前の自分は今の自分の状況を全く予測できていなかったし、今の自分は1年後の自分がどうなってるのか全然分からない。
この1年は割と自分に厳しめに生きていたので、ハードな時期もありつつ「全然予定通りできてないじゃないか〜だらけまくってるやないか〜」みたいな罪の意識も芽生えたりしていた。
社会人になってみて思うのは、今までは目標が一意に定まっていたことが多かったから「これは努力、これは堕落」みたいな振分けが容易だったけど、社会人は働いてさえいればそれ以外の時間は別段何してても何もしなくてもいい、というのを強く思った。
というか、何か趣味に励んだとして、それをやっている時間は果たして努力の時間なのか、逃げの時間になっているのか、判断が付きにくくて困った。
なんだろう、論点がころころ変わるけど、自分のこれまでの努力は肥大な承認欲求の塊によって突き動かされてきたんだなあというのを最近思うようになった。
いやもともと見栄っ張りなのは重々承知しているのだが。
何か大変なことをしている時、
「これ、地球上に人類が私一人しかいなくなってもやってんのかな。絶対やらんな。ていうか地球上に私一人しかいなかったら死ぬほど食べて死ぬほど寝て、たぶん二足歩行忘れるだろうな」
っていつも思いながら、だけど人類はちゃんと存在しているので、見栄を張ってやっている時が多々ある。
だけど、学生の時みたいに何か大きな決められたコミュニティに属している訳じゃなく、いろんなコミュニティを転々と生きるようになると、もう私のことを一貫して見てくれる人間などいないのである。
なので私は見栄を張る必要も無ければ、特段承認欲求を満たしてくれるような相手がいるわけでもない。
何かを目指すわけでもなく、何かやりたいな〜と思って、何かやる余裕のある時に何かをすればいい。
そういう生き方は、楽でもあるし、でも寂しくもある。
小さなことでも、何かを成し遂げるために1人になって、何かを成し遂げた瞬間も1人だった。って、珍しいことでは無いのかもしれないけど。
ニューヨークにいた時に思ったことがあった。
頑張っている時ほど、見てもらえていないということを強く感じて、頑張ることはこんなに虚しくなるものだったのかって。
でもなんか頑張ってたら人に認めてもらえるんじゃないかと思ってやってたりもしたけど、なんか結局、友達とごはん食べたり、遊んだりするほうが楽しいし、みんなそこでコミュニティが成立するから、1人で気張ってても虚しいだけだな〜って。
大丈夫だよ。
元気だよ。
まあだから1年経ってみて思うのは、今年くらいは楽に楽しく生きてみようかなと思っている。
ちょっと気を抜いてみようと思う。
できるか分からんけど。
承認欲求の権化だから。