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肥大化した感情移入
ぬいぐるみをなるべく買いたくない。
どのくらい生き物と同じように扱えばいいのかわからなくなるし、捨て時がわからない。
私が、人間が知らないだけで、植物や無機物が痛みやくるしみを感じていたらどうしよう、と考えてしまうくせが子どものころから消えない。
◎行方不明のトシコ
◎マグカップのクマさん
◎火葬されたくない
◎行方不明のトシコ
昔から、動物や何らかのキャラクターのキーホルダーを持つと、名前を付ける癖がある。
トシコというのは、私が高校生の時に文房具屋さんで買った、携帯に付けるストラップである。
目がくりっとしてて、頭にちっちゃいリボンを付けた、なんだろう?けむし?みたいなやつ。
こんなやつ。
トシコの色違いは何個か置いてあったけど、トシコの色をしたものはトシコしかいなくて、その子に一目惚れをして買ってしまった。
トシコは学校の友達にも気に入られて、私も大切にしていた。
トシコを買ってから2週間ほど経った日の朝、学校の部室に入って携帯を取り出すと、トシコが消えていることに気づいた。
うそや...電車にいた時はいたはずなのに...
学校帰りに辺りを探してみたけど、どこにもいない。
こんな寒空の下、地域柄、冬は風が吹き荒れていて、遠くの方に飛ばされてしまったのかも。
結局トシコはみつからなかった。
雨の降る日はトシコのことが心配になった。
今はもう、トシコを買った文房具屋さんも無くなってしまった。
トシコがいなくなってからもう6年ほど経つけど、未だに思い出して寂しくなる時がある。
私はトシコに、ストラップに対する、それ以上の愛情を持ってしまっていた。
◎マグカップのクマさん
自分以外の人や物に感情移入するとき、その感情は喜びよりも痛みや苦しみであることが多い。
もし私の無意識の行為が、他者に対して想像を絶するほどに痛めつけてしまっていたらどうしようと思うからである。
例えば、植物には動物の持つ神経というものがなくて「きっと痛みを感じていないだろう」と思っている。
だけどもし、この認識がまちがっていて、人間とは違うシステムで痛みを受容する部分を植物が持っていたらどうしよう、と思うことがある。
そう思いはじめてから、四ツ葉のクローバーを採ることをやめた。
まあ植物はまだいいとして、無機物、特に食器に感情移入してしまうことがある。(食器の用途上、熱湯を入れられたり水没させられたりとなかなかなことをされている故)
小学生の頃から持っているクマさん柄のマグカップがある。
なんとカップの内側の縁にもクマさんが書いてあって、ちょうど飲む時にクマさんと目が合うというオシャレカワイイデザインなのである。
オシャレカワイイ。
ところがなんという悲劇。
私は左利きなのである。
何も考えずアツアツの紅茶でも飲もうとすると、私の口に入る直前にクマさんの顔面がアツアツの紅茶に浸ることになる。
画力の限界を著しく超えているため想像力で補ってください。
毎日アツアツ熱湯地獄なクマさんがあまりにも熱そうで、私はマグカップを右手で持つ習慣が身についた。
◎火葬されたくない
小学校3年生あたりだろうか。
遠くに住んでいた祖母が亡くなり、初めてお葬式を体験した。
実際に火葬される場は見なかったけど、棺に閉じ込められて燃やされるのか、、となんだか恐ろしく思った記憶がある。
その記憶が今でも脳裏にあるのか、もし死んだ後も、人が、動かない体の中で感覚を持っていたとしたら、狭い箱に閉じ込められて燃やされる行為はとてつもなく苦痛なのでは......と想像することがある。
どうか私が死んだ暁には、苦しくない仕方で私の死体を始末してほしいと願う。
...死んだら、感覚が無くなってるといいな。
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共感と感情移入はちがう。
共感は、相手が届けてくる感情のエネルギーを自分の心が感じて感情を共有するというイメージ。
一個人の勝手なイメージです。
対して感情移入は、相手の中に自分の心が入り込んで、相手の置かれている状況を「私」として体験するイメージ。
一個人の(以下略)
私は感情移入をしやすい。
感情移入をしすぎてしまうあまりに相手の感情をどこかにほっぽってしまって、分からなくなることがよくある。
共感と感情移入は、使い分けが大事。