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迷い子の記憶

 大切なことを忘れている気がする。
 何度もこの世界に来ては誰かを探している気がする。

 
 彼女は仮想世界を渡り歩き、彼を探し続けていた。
 彼の姿を追い求め歩き回る。
 しかしどこにも彼は現れなかった。

 まるで彼と完全に切り離されているようだ。

 「どこにいるの?」

 一人ぼっちで彷徨い続ける。

 先ほどログアウトした世界はずっと未来の地球で、もう人間は生きていなかった。生きてる人間は火星に移住したらしい。

 「氣」を封じられた島国の民族が消えたことが全てが滅ぶ戦争の始まりだったとあの世界のAIが言っていたけど、何のことかだかは意味不明だ。何もかもが幻のようだった。

 
 焦りを感じながらも、再び新たな世界に意識を向ける。




 活気に溢れた中目黒川沿いの街を彼女は歩き始める。

 空気は澄んでいる。

 もう何度もこの景色を見た気がしたが、その記憶はすぐに薄れていく。
 空間を移動するたびに記憶はものすごい速さで薄れてしまう。
 脳の損傷がないはずがない。

 彼女は立ち上がり周囲を見渡した。
 街並みが広がり、人々はゆったりとした歩調で歩く。橋の上で撮影している者も多く、その光景は平和そのもの。
 つい口元が綻び、川沿いのチョコレート屋さんに入ってみようかなんて思いつく。

 

 いや、だめだ。

 彼との約束が果たされていない。
 だから彼を見つけなくてはならない。
 でも、何を約束したのか思い出せない。
 家の鍵を閉め忘れたことに気がついたときのような焦燥感に襲われる。



 

 『ログアウト』

 その文字が目の前に現れた瞬間、彼女は深く息を吸い込み指を震わせながらボタンをクリックした。

 次の瞬間、周囲が急に静まり返り、目の前に広がっていたはずの世界が消えた。

 重力を感じる。

 座っていた椅子から立ち上がると目の前に広がるのは、慣れ親しんだ「現実」の世界――築18年の小さな1LDKのビンテージマンションだった。

 部屋の中の家具は見覚えがあるものばかりだ。

 
 ペットたちが仰向けになって甘えだす。 



 猫を撫でるために腕をその白い身体へと伸ばすと、「思い出して」と猫は言った。

 確かに人間の言葉を喋った。



 現実にそんなことが起きるわけ、ない。

 「……ここも仮想世界?」

 その瞬間、世界が一瞬で崩れ始めた。


 窓から見える目黒川、テーブルの上の青い食器、カラフルなソファー。
 すべてが瓦礫のように崩れ落ち、消えていく。



 その崩壊の中で目を閉じる。

 次の世界では会えるだろうか。

 




 世界は完全に消え去る。

 その先に広がるのは本当の現実なのかしれない。
 また仮想空間かもしれない。

 彼はどんな顔をしていたっけ?

 人間ではないかもしれない。もしかしたらただのデータなのかもしれない。

 どんどん思い出せなくなってゆく。





 

 目黒川沿いを歩く人々の中に温かい笑顔が見えた気がして微笑んだ。

 それは彼女が自ら作り出した幻想だった。




迷い子の記憶/完

Model:My friend CHINATSU
Ikebana &Photo &Story:私

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