奥能登へ(ご報告)
NPO法人トーキョーローカルとして
2024年10月25日~27日の三日間、
富山経由で能登復興支援活動をしてきました。
東京(新幹線)➡富山(車)➡奥能登
現地では、珠洲市に届く支援物資を管理している職員のYさんに
市内の被災地域を案内して頂き、いろいろなお話をしてきました。
とても気さくで、優しく、「ハハハワ ハワッハハ ハハハハァ~」という独特な節のある笑い声が印象的な方です。
Yさんの自宅も仮設住宅に移り住まねばならないほど
被災されたとお聞きしました。
2024年1月1日の地震から10ヶ月。
9月には奥能登に甚大な被害を与えた豪雨。
私の心の中では、
ほどほどに(復興も)進んではいるだろうに
集中豪雨の被害も相まってやりきれないだろうなと…
せめて、
土砂の掻き出し作業で
少しでも力になれたらという思いで向かいました。
ところが、現地に行って初めてわかったこと…
今年9月の奥能登豪雨の…被害「だけ」じゃない
元日の地震から10ヶ月
手付かず。
時が動いてない
いや
動かせていない
ニュースで見た
一部、水道が復旧、電気が通って、終わりじゃない
始まってない。
いや、
始められないんだ、と。
Yさん「道路の陥没はだいぶよくなったんですけど、ところどころ飛び出てるんで気を付けてくださいね~」
「これ、凄いでしょ、マンホールが上がってきちゃって」と…
「今度はこっち、これは海面が下がっちゃって」と…
「次は、能登の自慢の島(見附島)があって…」と…
僕らに気を遣って頂き、笑顔混じりに説明していた
Yさんの表情も、ところどころで曇ります。
道中、Yさんに震災前のお仕事についても伺っていました。
スポーツ推進が主な業務で、奥能登で人気だった
豊かな自然を巡る「トライアスロン珠洲」などに携わっていたと。
私たちを案内してくれた場所は、まさにそのコースの一部でした。
「コロナがあって中止して3年、ようやく昨年復活して、また今年の8月には…なんて思ってたんですけどねぇ」
元日に見舞われた最大震度7「能登半島地震」、
追い打ちをかけるように9月「奥能登豪雨」
伝統的な民家の種類や残存率から「民家の宝庫」と呼ばれる
能登の風光明媚な街並みは、地元の方はもちろん、訪れる人々に愛された、
雄大で凛々しい山々、美しく澄んだ川、生命み溢れる豊かな海に、
容赦なく破壊されてしまいました。
「誰も悪くないんですけどねぇ…」
Yさんの言う「誰も」には愛した自然の数々も
含まれているのだと思いました。
隆起・陥没した土地も山々も、海も川も…
案内してくれた先々で
「ここは塩が有名でおしゃれなカフェがあって…」
「ここ綺麗だったんですよぉ…」
「ここは軍艦島とも呼ばれてて…太くてガッチリしててねぇ」と、
震災前のかつての光景に目を細め、まるで恋人を紹介するように
少しこそばゆいのか、照れた笑い声をまじえて紹介してくれていたからです。
「もう、トライアスロンはしばらく無理でしょうねぇ」
芸能に携わる者として何かお手伝いできればと思ったけど、
口にできませんでした。
東京から距離もあるし、交通・移動費も3万円ほどかかる。
流通もある程度復活していることを考えれば、
時間と金は義援金や物資に換えて送った方が良いだろうな。
遠方のボランティアに共通する考えだと思います。
「あとはプロに任せる他ない」
重機を使った家の解体や水道管の復旧、
電気系統もプロにお任せする以外に無い、
と思っていました。
平日だけでなく土日のボランティアの数が減っているのもその現れです。
実際は違いました。
昼から移動し、ボランティアセンターに依頼のあった
民家の土砂をかき出し、床板の修繕作業に入る。
家主さんにはせめて休んでもらい、人海戦術で進めていきます。
要請のあった業者が間に合わないお宅に配属されるのですが
やって分かった
「圧倒的に人が足りてない」のひとこと
翌朝も輪島地区で作業。
大雨の被害は想像を絶するほど凄まじく、またもやよぎる
「これは、もはや国の仕事」
「次に雨が降ったら、またイチから…」
「私たち素人にできることはあるのだろうか」
配置された場所は診療所。
近所の方も一緒に床上まで浸水したガレージと
家に押し寄せた泥をかき出します。
日が当たらない場所は
未だに水分を含んだ重たい土砂
想い出の品を外に運び出し、
瓦礫に埋もれたすべての生活用品を洗い出します。
そのほとんどが二度と生活に関わることができなくなっていました。
家主「壁の泥を拭き上げる前に、ここまで(洪水が)来たって印をマジックで書いてくれない?」
今後の教訓にするのだと思いました。
僕が書いていいんですか?と問うと、
「私たち(背が)届かないから」と。
背丈を超える位置まで水が押し寄せた、紛れもない事実を記します。
せめて磨き上げまでと思っていたけど、時間が来てしまい作業終了。
「最後に写真を全員で撮っていい?」
「全部終わって全員にお礼できないから、
せめて写真を見返して感謝の気持ちを送りたいの」
神妙な面持ちで撮られるよりも、
見返したときに笑顔が伝播するほうがいいと、
いつも通りに撮ってもらいました。
「あと、これみんなで分けて」
と、段ボールをはみ出すほどのお菓子やフルーツ。
受け取れない…と思ったのは、無償のお手伝いをかってでた気持ちでした。
けれど、こうも思って美味しく戴くことにしました
「おたがいさま」
「もしも」自分たちの住む町で、
「もしも」自分たちの住む家が被災したとき
お手伝いに来ていただくことがあれば、同じことをしようと。
その時、渡すものがなくても
感謝の言葉をたくさん伝えようと。
そしてこれは「もしも」とはいえないことも心に留めています。
できることがまだまだ沢山ある。
土砂のかきだし、
重機の入れない場所での作業、
川や海の清掃、
数え上げればキリがありません。
「生活再建」「商業の復活」も合わせてやるとなると、
大げさではなく、ボランティアの数は毎日300人いても足りないでしょう。
東日本大震災の時も、千葉の台風被害の時も、
「これでいい」「これで終わり」という明確な基準はなく、
今も再建の真っただ中。
~困ったときはお互い様~
そうありたいと今回の支援を通して思えました。
そして、今回ご協力頂いた「ダウンジャケット」は
輪島市で活動するボランティアチームへ
「被災者の方はもちろん、もし協力頂けるボランティアの方でも、
必要になった時は使えるようお願いします」
と伝えて預けさせて頂きました。
今回、お手伝いをして初めて分かったことの一つに
・朝晩の急激な冷え込み
・衣服が作業によってはボロボロになってしまう
ことがありました。
もちろん、万全の体制で皆さんボランティアに来られると思いますが、
いくら備えていても、思いがけないことがあるのです。
「助けが必要な方と、お手伝いに来る方と、
それぞれが助け合って復興を続ける」
そういった不測の場面でダウンジャケットが助けになると思います。
ご協力本当に、本当にありがとうございました。
最後に…
珠洲市のスポーツ事業に携わるYさんとの帰り道、
惨状を一通り案内してもらった私たちはうまく言葉を繋げず、
各々が窓の外に広がる光景を、ため息すら聞かれないよう、
想い馳せる時間になっていました。
普段の生活もままならず
これまでしていたスポーツ事業の仕事も、
支援物資の管理に代わり
泣く泣く諦めたトライアスロン大会。
かける言葉が見つからなかったのです。
そんな中、
正面から男性が息を切らして走ってきます。
ヘルメットにサングラス…
トライアスロンスーツ…
車内で皆が声をあげました
え?あれ!この道って…
「そうです、そうなんです!実はここ、
トライアスロンのコースだったんです!!」
Yさんは少し興奮気味に話すと、
窓ガラス越しに男性を見送りながら
「ハハハワ ハワッハハ ハハハハァ~」っと
車内に笑い声を響かせました。
その特徴的な笑い声は嬉しそうでもあり、悲しそうでもあり…
それでも「待ってくれている人がいる」という
希望の声のように聞こえました。
私たちも復興を待ち望むと共に、
待つだけでなく「お互い様」でこれからも助け合えればと思いました。
今回、車両の手配や食事処など、様々な支援を
「抱いてくれた(富山弁:戴いたの意)」富山のようさん、
本当に助かりました!
ありがとうございます!
各地にこういった心強い仲間ができることも助け合いの産物です。
震災前の珠洲の魅力が詰まった市のPR動画もご覧ください
心が鳴る音がする 珠洲市観光PR動画特設サイト