国立新美術館のクラウドファウンディングについて思うこと
国立科学博物館や国立天文台の事例に続いて、また国立機関のクラウドファウンディング。
国立の美術館や博物館は、独立行政法人として、国からの運営予算に頼り切らない採算構造が求められている。国家の関与を減らして独立性を高める半面、財政的にも国家の関与は減らすという建付け。
権力からの独立性を高めるという建前は美しいが、文化の保護育成というような“儲からない活動”には金は出さないよ、という冷淡な新自由主義的施策である。
利益をもたらさない活動に公金を注入しない利益至上主義が受け入れられる背景には、国民・市民の不満がある。自分たちの暮らしの充実に直結しない“贅沢”な事業に使うカネはない、という。
独立行政法人や教育法人は完全な独立採算制を敷かれてはいないけれど、本質はそういうことだと思っている。要するに日本は貧しい国家だという冷徹な事実。
国立大学や美術・博物館も、そういった市民感情を背景とした採算性の確保を求められ、運営に四苦八苦しているのが現状。貧しい国家には、文化保護や教育機関の運営をしていく余力がない、という現実。
そんな情況なので、科学博物館や国立天文台のクラウドファウンディングは必然的な帰結ではある。利益を生まない機関の運営は、好きな人が経済的に支援すれば良いでしょう、と。
受益者負担とも言えるし、公共性の放棄とも思える。
さてところで、新美術館のクラウドファウンディングに関しても、上のような社会構造の中で理解して良いものだろうか、という疑問がある。
国立新美術館は、そもそもコレクションを持たない“非ミュージアム”である。その出自は、公募展の主たる開催場だった都美術館のスケジュールがパンパンで、新しい公募展開催のためのスペースが欲しい、という要望に起因している。
要するに、各種美術団体への貸しスペースとして産まれたのが、国立新美術館。とは言え、各種美術団体の公募展だけをやるのは、国立機関としてどうなのか、という指摘から、公募展以外の、様々な展覧会も催す事となり、今の新美術館の活動はどちらかと言うと独自に企画した展覧会の方が強く認知されているように思う。
今回のクラウドファウンディングの目的は、そのような独自の展覧会の開催費用を賄うことが目的となっている。科博や国立天文台のように、運営資金の不足という深刻な事態とは少し様相が違う。
この、デル・ローエの未完の作品を実現させるのに、予算が足りないということらしい。
確かに、金のかかる企画だなあと感じる。
そもそもコレクションを持たない新美術館は、企画展のためには他の美術館から作品を借りてきて集めなければならない。その費用を賄うためには、(他の国立美術・博物館の常設展示と比べて)高額な拝観料を設定せざるを得ない。
高い展覧会に集客するためには、耳目を集める有名作や話題作を借りたり、今回のように注目を集める企画を練る必要がある。そのためには資金が必要となる。海外の有名作品をレンタルするには円安も経費増に拍車をかける。
その資金を調達するには、拝観料を高く設定せざるを得ない。高い拝観料の展覧会に集客するには…(以下ループ)
という悪循環に陥っているように感じられるのだがどうだろう。
未完の作品を完成させることに意義があるのか?という議論もあるだろう。未完は未完ゆえの存在意義を持つという考えにも説得力を感じる。
集客のためには、有名作など“儲かる”作品ばかりが展示され、知名度はない渋い佳作や、知られざるアーティストの展覧会は敬遠されてしまう。
新美術館がクラウドファウンディングに頼るということは、そういった傾向にさらに拍車をかけることになるのではないだろうか。
クラファンで集金しやすい、世間受けする企画ばかりになってしまわないか。
新美術館は、周辺の国立美術館(近代美術館、西洋美術館、現代美術館)のコレクション展をもっとやれば良いのに。それぞれの美術館でも常設展示やコレクション展はしているけれど、出展される作品数は限られているんだから、さらに新美術館のスペースを使って、観覧機会を創出して欲しいと思う。それはそれで採算的に厳しいのかもしれないけれど。