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ホキ美術館 - 千葉県美術館巡り その2

その1の続き。

千葉駅近くのホテルをチェックアウトして、9時半頃の総武快速でホキ美術館へ向かう。最寄り駅は土気(とけ)だけれど、知人と合流するため一つ手前の誉田(ほんだ)で下車。

僕がホキ美術館に行くという話をすると、近くに住んでるのに行ったことないから同行する、というので今日は知人と行動をともにする。

もう十年くらい前になるけれど野田弘志さんの著書『リアリズム絵画入門』(芸術新聞社)を担当した編集者とツィッターで親しくさせていただいていて、そのご縁でこの本を読み、スーパーリアリズムなるものを知って以来、一度訪れてみたかった美術館。

コンクリート剥き出しの美術館と、アプローチに沿って突き刺さる杭状の何か

美術館は一階の平屋建てのような造りで、展示室は地下にある。何故2階建て3階建てにしなかったのかな?

館内は撮影禁止。作品解説のアプリが提供されていて、いくつかの作品・作家についての解説文が文字で読める。また、「私の代表作」というコーナーに出展されている作品については、作家本人のコメントが音声で聞ける。

さて、実際にスーパーリアリズムの作品たちに接してみて感じたことは、やはり絵画は絵画なんだな、ということ。ほとんどの作品は、少し離れてみると写真と見紛うようなものであっても、近づいてみると絵の具が筆で塗られていることが確認できる。

とかく“写真みたいに精緻で凄い”と語られがちなスーパーリアリズムも、普通に絵画作品として観ればいいんじゃないの?と思った。

しかしそうなると、ではスーパーリアリズムの作品を僕は好きかというとそうでもないなあ、という感想になってしまった。

同行した知人は髪の毛などの細緻な描き込みにいたく感動していたけれど、どうも僕にはピンとこない。

リアルさって言うなら、昨日観たレンブラントの肖像画や、西洋美術館のド・ヘームだって十分にリアルだよなあ、などと思ったり。

そんな中、五味文彦のレモンやパンなどを描いた静物画や岡村翔平の作品は、筆致や色ムラを残さず、モチーフの質感のリアルさの再現にかなりの程度成功している。目を凝らして観ても筆の跡などはほぼ読み取れない。

しかし、ではそれらの作品が何か圧倒的なものを伝えるかと言うと、僕にはそれは感じられない。「で?」っていう思いが先に立つ。質感がリアルであればあるほど、描き手の存在は透明化されてしまうのではないだろうか?

むしろ、リアルな描写の上に絵の具を不自然に配置している諏訪敦の作品や、描き手のバイアスを通した独特の色遣いの森本草介のほうが、面白かった。

あるいは、リアルに描いた子供の絵の横に、人体模型を並べて配した藤田貴也の作品は、もはやリアリズム絵画そのものを乗り越えていくようなものになっていた。

スーパーリアリズム風の描画をベースにしつつ、あえてリアルさを損なうような、あるいは乗り越えていくような作品たち。そこには、描き手の存在感が確かに刻まれていて。

購入したカタログ(『HOKI COLLECTION 9』)には、「写実絵画とは何でしょうか?」との問に答えた作家たちの言葉が掲載されている。

「写実とは目の前にある対象を再現することでも模倣することでもなく、その対象のずっと奥にあるものと出会うこと」

「物事の本質を見つめ続け、存在を描くこと」

そんな言葉が綴られているけれど、それはスーパーリアリズムでなければできないことでもないわけで、それでも敢えてスーパーリアリズムを選び取る、その根拠は僕にはやっぱり分からないままだった。

そしてただ一つくっきりと分かったことは、僕はスーパーリアリズムの作品には心動かされることがないということ。

それを実感するためにはやはり、実物の作品の前に立つ必要があったので、そういう意味で貴重な体験となる訪問でした。

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