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黒沢清『蜘蛛の瞳』

殺された娘の復讐を果たした新島(哀川)は、生きる目的を失い無為な日々を送っていた。そんなある日、再会した昔の同級生・岩松(ダンカン)に殺しのビジネスに誘われる。殺しの仕事を始めるうち、新島は暴力の世界にはまっていく自分を感じる。
監督は「蛇の道」の黒沢清。脚本は西山洋一、黒沢清。撮影は「2/デュオ」の田村正毅。

(以下『蛇の道』と言う場合は2024年のリメイク版ではなく1998年版のオリジナルを指します。)

製作当時は『蛇の道』に比べてよく分からないなあというモヤっとした印象だった。

観直してもやっぱり分からなさはあるんだけど、ものすごく面白かった。『蛇の道』より好きかもという想いすら沸く。

とにかく哀川翔が良い。全てを喪った人間はこんなふうになるんだろうなと納得させる佇まい。

当時映画界に殴り込んできた鬼才・北野武をパロディするような物語とキャストながら、北野武の作品に横溢する“甘さ”を削ぎ落として格の違いを見せつける。

高橋洋の脚本である『蛇の道』との姉妹作で、設定や世界観は緩く繋がっているけれど、続編というわけでもなくて、同じ主題を巡るバリエーション(変奏曲)のようなもの。

『蛇の道』にはラストにサプライズが仕掛けられていて強烈な印象を残すのだけれど、『蜘蛛の瞳』にもある意味、それを超えるようなサプライズが仕掛けられている。

ただし、『蛇の道』のような分かりやすいサプライズではなくて、「?」と観るものを困惑させるような仕掛けで、これを楽しめるかどうかで今作への評価は大きく変わる。

『CURE』以上に分かりづらい、象徴性の高いシークエンスなのだけれど、だからこそ観終えてもずっと、胸に何かがつかえたようなスッキリしない、でも気になる、というような手応え、じわじわと広がってなかなか消えないさざ波のような余韻が残る。

さざ波といえば大杉漣、車に乗って、車道を歩く哀川翔とやりとりをするシーンの、フレームの左右拡がりをうまく使った素晴らしさ、可笑しさ。

人が歩く姿を、並行に動くカメラで撮るのは黒沢清の好きなアングルだけれど、ここは作中の人物たちの動きが一方向ではなく、行ったり来たりするところが面白味を増している。

あと、人が追っかけっこをするシーン、それを長ロングで俯瞰的にしかも長いカットで撮る。追いつ終われつなんてサスペンスは微塵も生まれない、ただ走り回る人物たちの愚かさが滲み出る冷淡さ。黒沢清の作品に滲む乾いた感触がマックスに達している。

この頃の黒沢清らしい、舞台俳優のように画面をウロウロする人物たちを長回しで撮るシーンも多く、あぁ黒沢清やなあと嬉しくなる。

この頃の黒沢清は確かに最初の絶頂期だった。今作はシュールなストーリーで取っ付きにくいけれど、『CURE』や『蛇の道』に遜色ない傑作。

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