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ヨン・フォッセ『だれか、来る』

2023年ノーベル文学賞を受賞した、ノルウェーを代表する劇作家の代表作「だれか、来る」とエッセイ「魚の大きな目」を収録。邦訳の単行本は初となる。
シンプルな言葉を繰り返す詩のような台詞で人間の本質を問う「だれか、来る」は、だれもが自分と重ね合わせられる。90年代に発表されるや、世界に衝撃を齎した。

塩田千春の展覧会で、この『誰か、くる』の場面を描いた作品が出ていて興味を持ち、会場で購入した一冊。

塩田千春展の図録と本書、
展覧会を観た帰りのカバンは重かった…

一応、戯曲である。戯曲ではあるけれど、実際に舞台で上演するのはかなり難しいだろう。何も起こらない。その、何も起こらなさを生身の人間の動きで表現できるのだろうか。言葉だからこそ可能な、欠損の表現という気がする。

戯曲を読むというよりも、散文詩を読んでいる感覚に近い。リフレインの多い文章は、メロディーに乗せられた歌詞のようにも感じられるが、そのメロディーは言葉自体が生み出すリズムに乗っていて、結局のところ、まず言葉ありき、ということだ。

塩田千春がこの作品の場面を描いたいくつかの作品は、さすが雰囲気をよく捉えている。
だけれども、やっぱり、言葉による表現であることが重要なんだと、塩田の作品が逆説的に証しているように思える。

具体的な形や物を離れて、極度に抽象された表現としての戯曲。すごい逆説のようにも思えるけれど。


塩田千春は図録でこの戯曲について「難しい」と書いている。確かにある意味で難解だとも言えるけれど、それほど難解さに拘らなくてもいいんじゃないかという気もする。

彼と彼女の間に漂うヒリヒリするような緊迫した空気。その緊張感の種子は元々二人の間にあったのだけれど、購入した古い家で、その家を売った男と出会うことで、種子は発芽し彼と彼女に絡みつく。

キャラクターについての描写が削ぎ落とされているため、とても普遍的で抽象的な、人間の精神の脆さや痛ましさや生きてあることの不安が描かれているように僕は読んだ。

二人きり、一つに重なり合って生きていきたいのに、常にその願いは裏切られ、男と女は疎外し合う。その要因は、二人の精神自体に潜むものだけれど、それを“誰か”と擬人化したところが、この作品の眼目だろう。

塩田千春展を観た時の記録はこちら。


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