『彼岸過迄』夏目漱石

いくつかの短篇を連ねることで一篇の長篇を構成するという漱石年来の方法を具体化した作.その中心をなすのは須永と千代子の物語だが,ライヴァルの高木に対する須永の嫉妬を漱石は比類ない深さにまで掘り下げることに成功している.この激しい情念こそは漱石文学にとっての新しい課題であった.

“久しぶりだからなるべく面白いものを書かなければ済まないという気がいくらかある。”(『彼岸過迄』について)という気負いのもと書き出されたこの作品は、いろいろ深読みも可能なんだろうけれど、素直に受け取れば、いさかか破綻した構成で、漱石の意は十全には尽くされなかったのだろう。

探偵趣味と浪漫趣味《ロマンチック》旺盛な語り手・敬太郎は、前半はそのキャラ設定のとおり旺盛な好奇心で活動するのだけれど、後半になるとただ一方的な聞き手として、まったく活動を辞めてしまう。

“小説は建築家の図面と違って、いくら下手でも活動と発展を含まない訳に行かないので、たとい自分が作るとはいいながら、自分の計画通りに進行しかねる場合が能く起って来るのは、普通の実世間においてわれわれの企てが意外の障害を受て予期の如くに纏まらないのと一般である。”(『彼岸過迄』について)

と書き始めに予言していた事態はかなりの程度実現してしまったのではないだろうか。

「結末」という章は、この物語を概括し、敬太郎という青年が様々な人生の機微盛衰に触れるけれども、“彼は遂にその中に這入れなかった”と結論づける。

飽くまで傍観者、観察者としての立場を超え出ない敬太郎が、“突如としてやんだように見えるこの劇が、これから先どう永久に流転して行くだろうかを考え”るところでこの物語は断ち切られる。

この結末が、漱石の企図通りだったのかどうか。漱石研究に詳しくないのでただ想像だけで言えば、この、語り手が実人生を生きることなく終わってしまったことへの反省や悔悟が、次作『行人』へと繋がる一つの契機ではないか。

そしてもう一つ、嫉妬という人間心理の大きなテーマを探り当てながら、それをメインテーマに書き切れなかったことが、『行人』においては主たる課題として据えられたのではないか。

『三四郎』『それから』『門』といくつもの恋愛の諸相を描きながら、そこには決定的に“嫉妬心”が欠如していた。そのことに思い当たった漱石が、恋愛の基盤に嫉妬心があるということに思い当たったところに、『彼岸過迄』の重要性があるように思う。

『それから』や『門』で展開された恋愛における三角関係において、社会的には不貞と詰られる姦通が、非・社会的な“自然の感情”とされているのに対し、『彼岸過迄』以降の漱石は、倫理や道徳といったレベルの共同性とは異なるけれども、複数の人間の絡まり合いがなければそこには恋愛が生まれてこない、という意味での、社会的な洞察に基づいて、人間関係の一つの究極としての三角関係と、そこに必然的に喚起される嫉妬、欲望という人間の情念そのものを深く追求していく。

いいなと思ったら応援しよう!