中村眞一郎『冬』
四部作を読み終えました。大雑把に言うと、老年に差し掛かった男が人生の歩みを回想するというお話。
しかしいくつかの点から、そのような要約とは掛け離れた作品になっている。それが中村眞一郎の試み、企みであり、この四部作を他の類似の構想に基づく作品たちとは隔てる、この作品独自の魅力でもある。
その一つは、実験的とも前衛的とも言える文章表現だ。丸括弧で、今書かれた地の文章へ作者自らが注を付す―もしくは、ツッコミをいれる―というのが、最も頻出する手法。この時制のズレにより、回想される過去、それを文章に綴る時制、さらにそれが書かれた後、というふうに、作中の時間軸は複雑に膨らんでいく。
単に時間軸が前後に揺れると言うのではない、重層的な企みは、記憶や想い出というものの持つ意味を、読者に問いかけてくる。
その上で、『冬』のラストにおいて、それまでずっと過去へ向かっていた語り手の意識が初めて未来(と言って良いのか定かではないけれど、未だ至らない場所)へと向かう。その時、そこには肉体的な死を充分に意識しつつ、かつ、それを乗り越えるような何かが、語り手に取り憑く。
それを信仰と言っても良いのかもしれないけれど、作中でも指摘されるように、何らかの特定の宗教に還元されるようなものではない、いわば日本の文化に常に滲み出している幽玄や儚さといった感覚。個人の感慨を超えて何か大きな流れの中で、揺蕩うように消えてゆく命。
過去、現在、未来。それは進歩派が言うようなリニアな流れではない、という意味で、中村はこの作品では“反動的”ですらある。
堆積しつつ渦巻きつつ、蠢いている時間という謎のうねりの中で、そのうねりの大きさに翻弄され孤独に苛まれつつ、人は自分の道を歩む。自ら選び取ったという自覚もなしに、しかし振り返れば、そのようにしか歩めなかったという必然性に固められた、自分の人生の道行を。
長い物語だけれど(途中退屈したところもあるけれど)ラストは凄みすら感じさせて、さすが中村眞一郎。
もう一点、さすがと思わされたところがあって、作中の主人公はほぼ中村眞一郎と重なるような体験をしてきた男に造型されていて、だから何となく、私小説のような感じで読み進めてしまうんだけれども、語り手の前に現れ通り過ぎてゆく多くの人たち、彼らとの関係性やともに経験する出来事は明らかにフィクションで、私小説のように、ご都合主義に“事実”を解釈するような独断を、作者は放棄している。
挟み込みの栞に掲載されている対談を読むと、この四部作は書き継ぐ中で構想が練られていったようで、最初からすべてのデザインがあったわけではないようで、それなのに、最初の作品での記述が、後の作品で非常に効果的に引き直されたりして、構成の妙に唸らされる。これを書き継ぎながら考えたのか、本当に?
個人的にはやはり、青春の淡い回想譚という趣のある『四季』が印象深いけれど、『冬』まで読むと結構その印象も上書き更新されていくので、その面白さという点では『冬』がもっともパワフルなのかもしれない。