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吉江淳 写真展「出口の町」ギャラリーOGU MAG
所要があって上京し、少し時間が空いたのでふらふらと散策していたら、雑然とした古い商店街を通り抜けたところにカフェ併設の小さなギャラリーOGU MAGがあった。
https://www.ogumag.com/
暑さに喉が乾いていたのでカフェ目当てで入ったら、写真家の吉江淳さんの個展が開催されていた。
失礼ながら全く存じない写真家さんだったけれど、綺麗なものとかインパクトのあるものが写っているわけではない、地方都市の光景の写真たちを眺めていると、何だか不思議に惹き込まれる。
吉江淳さんは三木淳賞という賞を受賞なさったそうで、その選評(港 千尋氏)がとても良かった。
吉江 淳氏の作品「出口の町」は作者が生まれ育った故郷であり、今もそこで暮らしながら制作を続ける地元の写真である。その作品が描く地元の特徴は、ひとことで言うと特徴のないことかもしれない。ランドマークとなるような自然が出てくるわけでも、文化財と言えるような立派な建造物や歴史的景観が描かれるわけでもない。そうした特徴のない土地を継続的に作品化するのは、独自の視点とスタイルがなければ不可能なことであり、そこに作者の卓越した技術と強い意志の力を感じることができる。
(略)
記憶するに値しない風景を、人は殺風景と言う。だが写真家の視点は、殺風景にしか醸し出せない微妙なバランスを作り出す。作品を見ていると、忘却される風景にこそ価値がある、そんな気がしてくる。これは地元だからこそ備えられる美学かもしれない。
僕もまた地方都市に暮らしていて、日々何と言うこともない光景を見過ごしながら生きている。
吉江さんの写真を眺めていると、まるで自分の街の光景のような既視感と、にもかかわらずそういった平凡で面白味のない、人気(ひとけ)もない淋しい風景を写真に撮るという行為への不可思議な感興を覚えた。
写真家は何故この風景を撮ろうと思ったのだろう。
田舎のショッピングセンターの駐車場に咲くコスモス。
大きな水溜りに沈んだゲートボール場。
稲穂が実る田んぼに隣接する古びた企業のビル。
そこには確かに人々の暮らしがあるはずなのに、写真からはそれは丁寧に削り取られている。
決して美しいもの、人の目を引くものではない。街の光景には人気がなく生気がなく生活感がない。淋しくて静かで沈んだ光景。
それを撮ることの意味、それを観ることの意味。
そんなことを想いながら写真を眺めていると、隣にいる男性が吉江さんご本人だと気づいて、思い切って話しかけてみた。
「どうして吉江さんの写真には人物が写っていないんですか?」
吉江さんの回答はこんな感じのものだった。
「写真の中に何か突出した主題を起きたくない、全体で見て欲しい。
特に人物を置くとそこに観る人の焦点が合ってしまうように思うのと、生活感を出したくないので、人物を大きくは映さない。
シャッターを押した瞬間というよりは、その前後の時間をも感じさせるような光景を撮りたい。」
直ちに飲み込めるものではない言葉だけれど、不躾な質問に、考えをめぐらしながら真摯に答えてくれる吉江さんの姿と、言葉と、写真とが、強く心に刻まれた。
OGU MAGでの吉江淳さんの個展は明日(9/15)まで。
吉江さんの公式サイトには作品ギャラリーコーナーがあり多くの写真が公開されている。