見出し画像

【鉄面皮日記】23/06/25.Rat Race "駐車場"

純化していけば、クオリティに達する。

以前書いたこれを思い出しながら、やはりそこへ到達する道すべが分からなくなる。
道に迷う、とは、こうゆうコトなのだろうか、けれど道順に正解はないので何処を通っていこうとも辿り着ければいい。
ゴールが見えなくとも、確かなコトは箱を運び賃金を得て、それで生活をしていくというコト。
好きと嫌いが入れ子になってしまってるが、その順序はどうでもいい。
どこから始まったのさえ判別できぬが、嫌いの中に好きがあって、その中には嫌いがあって、開けたら好きがあり、、、無限大
箱をどんどん開示していく遊戯、ネズミの競争に近いじゃないか、賽の河原の石積みじゃないか、それが生業だというのか。

"駐車場"


96~7年頃に六本木駐車場発券係のバイト。
その頃は、自分の店(レコード屋)を持つということに邁進していて、掛け持ちでバイトやっていたひとつ。
西、東駐車場とあり、立地は格別によいのでお客さんはひっきりなし。
自分の車を持っていた時期で、東京で自家用車を持っているというのはかなり危険な行為、20代後半のガキに賄えるものではないと今では思うのだけど当時は何も考えてはおらず、車で通ってそこで呑気に洗車なんかしてた。
通勤ついでに渋谷のJRA場外馬券場に立ち寄り馬券を買って、掘立て小屋(駐車場の勤務場所)でテレビ中継を見るのが週末の楽しみ。
掘立て小屋は、冷暖房完備、テレビもあるしカセットデッキもある、ギターを弾こうがお構いなし。
勤務時間は2交代、夕方から早朝、早朝から夕方という2パターンで、フルで入っても良かったので日曜日などはそこで過ごすことが多かった。
時勢はちょうどオウム事件真っ只中、場所は六本木なので近からず遠からず、本部の村井刺殺事件などは掘立て小屋でテレビ見てた。
仕事内容はいたって簡単、車の誘導などはせずに発券し帰りに精算するだけである。

そんな掘立て小屋に、一発の銃弾が打ち込まれた!
ええ!? なんでやねん、と誰もが思いますがな、それがこのバイトの肝。
やけに高額な時給もそれに付随するのです。
実はここ、ヤ○ザが地上げした土地に居座りもっと値を釣り上げていこうというような場所。
とにかくそこに居座って何らかの事業をして、立ち退きを拒否していけば、土地の値段がどんどんと高騰してくようだ。
ですから雇い主はそんな強面、集金にくるオトコは太っちょで汗っかき、ふぅふぅ息荒く現れて、レジ金をさらっていくのだが、ちゃんと僕らに小遣いもくれる。(千円とかだけど)
銃弾打ち込まれたのは僕の時じゃありませんし、バイトには被害なしでしたが、けっこう覚悟してやらなければならないという訓戒を得たのですが、やはり僕は呑気だったのでしょう、高額バイトにも目がくらみ最後までやっていました。
さて、当時に書いたものを載せておきます。
ちょうど97年はホームページ開設して、日記帳とは別に駄文をアゲていました。
猫屋敷というのは、西駐車場の広大なスペースにあった蔓植物に覆われた倉庫のことです。
この界隈には猫がたくさん居た。
血縁同士で交配を繰り返してるからカタワが多かった。


「猫屋敷探索記」

今宵も老若男女、たいした意味があるでもなく、腐敗物にたかる蛆の如く、どこからともなく人が湧きあがって街は賑わいをみせている様子だ。
繁華街、合法的な欲望の捌け口、ゴミ集積場、水洗便所の合理性。
そんな歪みによって、心にも、店先にも、あんたの鼻っ先にも漂っている街の空気は、すっかり淀んでしまっている。
早朝、そんな空気を払拭するのは、ゴミ集積車とカラスと朝日だけである。
蔓植物に覆われた、以前はいったい何の建物だったのか判別できない程痛んだ二階建ての洋館。
姪錠と扉に巻付けてあった鎖は、すでに外してある。
半開きの鉄の扉から、中へ侵入した途端、むわっと異臭が鼻を射した。
ここはこの界隈の猫が出入りして、いつの間にか住居となってしまった猫屋敷である。
懐中電灯で足元を照らして先へ進む。足元は、猫の糞尿だらけで、誰が持ち込んだのか毛布やダンボールが腐敗して、ヘドロ状になってしまっている。
「長くは居られないぞ。」あまりの臭気で目がひりひりしてきた。
まだ陽の光がある時間だというのに、室内は暗く陰気だ。
朽ち果てたソファ、積み上げられた電化製品に埃だらけの事務机、盲滅法、粗大ゴミをぶちまけた形跡さえある。
実は目的は、置き去りにされたと言われる楽器機材なのだけど
確かにそれらしき物体はあるにはあるが、床と一体化してしまっていて、錆びとヘドロ 状のものが浸食していた。
「こりゃ使いものにはならない」と判断するのに時間は要しなかった。
子猫と遭遇、怯えていたのはお互い様で、こっちは顔面蒼白、硬直状態で、 むこうはひらりと身を隠した。
二階はがらん堂。もはや耐えられない限界まできていた。
この屋敷内よりは、汚染された外の空気の方がまだマシだ。

この建物はこの2、3年の間に、すっかり自然に居住権を明け渡し、人を拒んでさえいる。
立ち入っちゃいけない。
外界から出入りを許されているのは猫だけだ。
衣服は汗と臭気をたっぷり吸って、そこから遠のいても頑として臭いが落ちなかった。
びっこのぶち猫がせせら笑ってた。

猫が居ない街は、病んだ街だとか、誰かが言っていた。
健全、不健全は別としても、淋しい気はする。
けれど、どこかしらにシェルターらしき逃げ隠れのできるスポットは、
どこの場所にだってある。この空き家がそうであるように。
この界隈の猫は片輪が多い。唯一自然が残るこの狭い空間で、血だけが濃くなった結果だ。
猫は一年に4回出産して、3~4匹、7~8年産み続けると言われている。
平均すると80匹ぐらい、一生の間に産むという計算になる。
自然を変形して、歪になってしまった人間が、猫に対して出来ることは、避妊などの人工中絶手段しかないと思えるが、野良猫が形成する社会に介在するのはどうだろう?
バランスが狂ったまま、それが自然に組み込まれてしまってるとしたら、それで人間もその 生態系の一部となっているのなら、良いのだろうけれど…。
「餌をやるならば、排便の始末から全部責任をもって、面倒をみろ。」と、奴らの論調はこうだ。
「中途半端に餌だけやるから、野良猫が増えるんだ。」と…
自分の庭さえ綺麗ならば、となりの庭にゴミを投げ入れることさえ罪悪感を感じない輩だ。
ペットブームで動物を買って、平然と捨てるような連中だ。
彼らにとって、生き物はオブジェでしかないからだ。
都合に合わせて害獣をつくりあげ、排除する。
不自然な一方的な、それらの行動が生態系のバランスに歪みをあたえる。
入り組んだ都市機能には、野良猫のシェルターがいくつも点在できる余地がある。
それらを排除することは、自分らの首を締めることである。
区画整理された、合理的な のっぺらした街、目的しかなく機能しかないつまらない街、
息が詰まってしまうだろう。

あの猫屋敷には、毎日、餌をやりにくるおばちゃんが居る。
時折、自分も餌をやる。
だから人間もその生態系の一部となっている。
無関心な供給者と消費者しかやってこない繁華街は、都合良く出来ている。
とは言え、それは長続きするものではない。
もしあのおばちゃんが居なくなったら、もし景気回復と共に猫屋敷が人手に渡ったら、つまりは、応急的な仮の巣である。
しかし、もしかしたらこのままであるかもしれないし、それは分からない事だ。
この世界に永遠なんてありはしないし、いつか終りはやってくる。
だから現在を甘受して、幸福に浸れる。
あそこの猫がじゃれあっているのを見ていると、動物には思考が存在しないように思え、瞬間だけを受け入れている気がする。
約束された結末を予感するのは、人だけだ。
【archive】1997/09/17.ICCH


2014年 跡地

その後の跡地、通りかかった時にパシャリと。
もちろんもう猫屋敷もろとも、消えている。(でも駐車場にはなっていた)
あの頃は、ご飯を抜いてでもお金を貯めていて、(でも馬券は買うというね)
フランスパンと烏龍茶でお腹を満たしてた。
たまにチップを貰い、吉野家まで一走り牛丼テイクアウトしてかっ込んだ。
六本木は僕にはとてもかけ離れていて別世界のようだったから、その当時は嫌悪していたし、欲望だけが最優先されているような場所にみえた。
しかし六本木は聖地である、と知るのはもっと後になってからだ。
東京は、それだから面白い。