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【映観】『生きる(1952)』と『LIVING(2022)』

『生きる』(1952)
監督: 黒澤明
出演: 志村喬、小田切みき、日守新一、金子信雄、ほか

映画ファンとしてクロサワ映画を見たことがない人がいたら、それは実に勿体ないコトをしてる。
お寿司屋さん行って、ナマモノ食べられませんて云うようなもんだ。
身につまされる社会派ドラマから、活劇エンターティナー、チャンバラ、人情劇、時代絵巻まで多岐に渡る世界のクロサワ。
この映画はいわゆる"余命宣告"モノだ。
もうタイトルだけでお腹いっぱいになっちゃうかも知れないし、生半可な作品にこんなタイトルは被せないだろう。
この映画は、そのものずばり"生きる"ということが描かれていく。

普段ぜったいに遠ざけてた"死”を宣告されてしまったら、その人はどうゆう行動に出るのだろうか?
"死”を避けて通れる人間はいない、遅かれ早かれ誰にでもやってくる事象、それを"生者必滅"という。
生まれなければ死なないけれど、生まれちゃったら死ななくちゃいけない。
死んじゃったら生まれ変わるっちゅう確固たるデータもないので、死んだらきっと無であろう。
今まで築き上げてきたものは消失、夢幻、水泡に帰するだけである。
それだからこそいま生きているうちに何ができるのか、という問いを突きつけてくる。
のほほんと惰眠を貪るように生き見逃してしまう何かを、余命宣告された者は否応無しに見るのだ。
主人公が見るというコトは、客席で他人事のようにいる僕らも見てしまう。

若々しく生きるコトしか見えていないお嬢さんに「ミイラ」という有難くもない綽名(あだな)を頂く、
生きているのだか死んでるのだかわからない主人公。
妻を亡くし、息子を独り身で育てあげ、お役所仕事を30数年続け余命幾許かもない彼は、生真面目すぎて遊ぶことも知らない。
前半はそれを取り戻す旅であり、そのお嬢さんとの会話で一念発起、まさに生まれ変わった彼へ手向けられるのが、
偶然にそのカフェで誕生会を開いていた集団の「ハッピーバースデイ ツゥユー」の大合唱である。

生きる。ハッピーバースデイ♪

死んでいた男が、生き帰ってくる瞬間に、鳥肌が立つ。
お役所のルーティーン仕事に辟易していた男が、死を目前にして成し遂げようとする仕事がそれから始まる。
そして、あっけなく遺影、お葬式。
その斎場で遺された者たちは何を感じ、何を語るのだろう。

そこも見どころ、それぞれの視点から彼を浮き彫りにさせていく羅生門状態、ここの演者達も手練れだ。
最初から終わりまで完璧な活動写真、
生きていく者たちの根拠のない一念発起の落とし所、
もはやこれまで、降参、降参だ!
こうやって僕らは、自身を裏切り誤魔化し茶化して、くだらなく生きていく。
無自覚に余命を貪っていく。

『LIVING』(2022)
監督: オリヴァー・ハーマナス
脚本: カズオ・イシグロ
出演: ビル・ナイ、エイミー・ルー・ウッド、アレックス・シャープ、トム・バーク

こちらを先に見たので、原作映画を再び観覧した次第。
近年のリメイク作品で、イギリス映画らしいお役所仕事のシニカルさは「未来世紀ブラジル(1985)」のよう、
過去でも未来でも一向に変わらないのは、融通の利かない投げやりなお役所仕事ということか。
こちらで主人公は、「ゾンビ」という綽名(あだな)を頂く。
それにしても設定を英国に置き換えてはいるものの、シュチュエーションはほぼほぼ同じ。
こちらを先に見たらなるほどビル・ナイやるじゃないかと思ったが、志村喬の鬼気迫る入れようには足元にも及ばない。
どうしたかったんだろう?
同じであるならばそれは意味を為さないよね、なんだろ、イギリスなりの解釈をしたかったのかな??
でもこうやって原作映画で足を向けさせるのだから、何らかの意味はあるのかも知れない。
ちょっとやり過ぎ感あるけど、公園でブランコ漕ぐシーンはやはり、いい。

違う切り口で余命宣告モノ、ジョニデの方もシニカルさで負けちゃいない。
やはり自分自身が死ぬ、てことを想定して生きちゃいないので、茶化してしまう気持ちもよく分かる。
死なないと思ってるでしょ?
いや死にますよ、確実に。

志村喬

最後に、こんな顔できる役者さん、いまいるのかしら?
どんなにいったって、最後に胸を潰されるのは、こんな演者の顔だ。