無為こそ過激。
"無為こそ過激" これは漫画『迷走王ボーダー』蜂須賀さんのセリフ。
それをどう捉えてもいいけれど、それに出会ってしまったコトで、まさしく迷走を続けるコトになろうとは、30年前の僕には判る術もなく、それでも呪文みたく、念仏みたく、言い訳みたく、つぶやく。
無為こそ過激、無為こそ過激、無為こそ過激、、、と。
ナニもしないコト、すなわち、突き抜けている。
それは、”色 即是 空”という禅的境地まで達する。
無為はからっぽ、”Vacant” であり、”No where man” であり、
なにもないコトは失うモノもない強さだ。
本来あったものがなくなってしまったという”Empty”とは根本的に違う。
最初から持たざる者なのだ。
つまり最初っからナニも為し得ない。
始まりがないのだから終わりもありはしない。
宇宙の起源といわれるビッグバンが生じる手前の状態、実体なく”空” 、
虚へと繋がる概念なのだ。
と、強く言い放ったとて、概念でメシは喰えない。
働かざる者、喰うべからずなのである。
社会的に、労働して賃金を得て、衣食住をまかなうというところが、通常の生活人である。
“無為”とは、”怠惰”でもあった。
ヤルべきコトをヤラないコトへの、弁明、或いは言い訳とも言えよう。
さらにその先に、”過激”というコトバが続くのだ。
過激とは、
1 . 度を越して激しいこと。また、そのさま。
2, 考え方ややり方が世間の常識からひどくかけ離れていること。また、そのさま。
そのさま、だ。
“過激”は、”Radical”と捉えるよりも、”To other side(あちら側)”とする方が詭弁が利く。
ここでこのコトバの発祥、漫画”迷走王ボーダー”へ話しを戻す。
『迷走王 ボーダー』は、狩撫麻礼・原作、たなか亜希夫・作画による漫画。
1986年から1989年にかけて連載された。
いい年をして安アパート「月光荘」の便所部屋でその日暮らしの極貧生活を送る粗暴な蜂須賀と、同じく無職で素性不明の久保田、東大志望の浪人生(のち合格)で、蜂須賀に迷惑をかけられながらも行動を共にする木村の3人が巻き起こす騒動を描いた物語。自分たちから見て「あちら側」と称した世界(つまり唾棄すべき一般人の世界)と「こちら側」との境界線上を行く者という意味で「ボーダー」という生き方を選んだ3人の生き様を、時にはリリカルに時にはコミカルに描く。
wikiより
あちら側でもこちら側でもいいが、とにかくココとは違う別の側こそ、過激なのである。
そちら側へのチケットが、すなわち“無為”というコトになる。
連載当時、バブル真っ只中、膨張続ける経済に辟易したモノへ、手向けた漫画だった。
便所部屋にこそ住んじゃいないが、僕はそこから微動だにしていない、
ように思われるのだ。
そして、この漫画のクライマックスは、デパート屋上ビアガーデンに於ける嵐の中のライヴ、だと、勝手に断言しよう。その後の話しは、僕にはどうでもよかった。
ここで演奏される ニール・ヤング”Like A Hurricane” にこそ、すべての答がある。この漫画を通して、ニール・ヤングを知り、その曲を初めて聴くコトになる。
率直に言おう、腰が抜けるホド、口あんぐり、拍子抜けしてしまった。
つまり、ものスゴく過激で危険でブッとばされるような演奏を期待したら、肩透かしを喰ったワケだ。
フニャフニャした歌と演奏、ダラダラと長引くギター、なにもかも想像していたものとは違った。
これがPUNKやハードロック一辺倒だった僕の、いわゆる分岐点ともなった。
お前はハリケーンみたいだ
目は穏やかなんだけど
俺は吹き飛ばされていくよ、
気持ちが落ち着くようなどこか安全な場所へと
お前を愛したいと思っているけど、
俺は吹き飛ばされそうだ
そうして、やっとこさ、僕という塊の土台が築かれたコトになる。
それから、"無為こそ過激"に固執し、囚われ、翻弄され、
いまだ嵐の中、微動だにできないでいる。
【archive】2017年記事