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NHK大河ドラマ「獅子の時代」(1980)


全51話、1話約40分として約2000分、34時間あまり。我ながらよくぞ見切ったものだ。
実は大河ドラマは初めて観たのである。
山田太一・脚本というコトで、手を付けてみた次第であるが、なによりも菅原文太・主演ということが大きい。「仁義なき戦い」「トラック野郎」後、東映からテレビへと移行した記念碑的作品。
もう一方の主人公に加藤剛を配し、幕末~明治という激動の時代を、裏っ側から描いている。
「天皇の世紀」との関連性は知らないが、現代の街並みをそのまま取り込み、細部など無視して進行していくスタイルに、宇崎竜童ダウンタウンブギウギバンドがテーマ音楽を奏で、当時はさぞや斬新に映ったことだろう。
挿入曲がサンタナ「哀愁のヨーロッパ」に酷似しているのはご愛敬てコトで。
80年当時、これから売り出していこうと思われる若手、大竹しのぶ、永島敏行、岸本加世子、三田村邦彦、根津甚八、それからチョイ役だが、役所広司、柳沢慎吾、熊谷美由紀、清水健太郎などの顔もみられる。
脇を固める布陣は、大原麗子、鶴田浩二、加藤嘉、沢村貞子、丹波哲郎、児玉清、村井国夫、岡本信人、大滝秀治、尾上菊五郎、細川俊之、志村喬など、もう主演を張れそうな重鎮揃い。
今でいうとどんな感じになるんだろうと一瞬考えたが、まったく最近の俳優を知らないのですぐに頓挫、とにかくNHK大河に相応しい布陣で挑んだコトは間違いないだろう。

文ちゃんは、とにかくイキがいい、脂が乗りまくってる頃合だ。仙台育ちなので会津弁も小馴れていて、殺陣もきまってるし、暴れっぷりは仁義なきバリである。投獄、脱獄、逃亡と三拍子も揃ってる。
思うに山田太一は、坂本龍馬なき後の明治、文ちゃんを使って、もし龍馬が在命していたらこうだったんじゃないのかを、表現したかったんじゃなかろうか、それくらい行動力は並外れている架空の人物像。

方や加藤剛は、実直すぎるくらいの生真面目っぷりを発揮する大岡越前。
なんでそこで器用に振る舞えないのか、薩摩の官職にいながらどんどん窮地に追い込まれていく間抜けさ、視聴者をイライラさせ引き込んでいく役回りである。だからといって、真面目さが正義かといえば、このドラマでは誰もが正しく愛国でありえるので、それは頑固な薩摩野郎の自慰行為にもみえてしまう。
そういったワケで、会津と薩摩のやりとりが混然として、たまに長州、土佐、蝦夷といった方言が飛び回るので、視聴者の頭は九州弁と東北弁でグチャグチャになってしまう。

さて物語は、パリ万国博覧会から始まる。刀を腰から下げたチョンマゲが、パリ市街を闊歩する姿はなかなか珍妙、幕府使節団と、それに対抗する薩摩藩の画策、そうこうしてるうちに大政奉還、明治になってしまうのだが、このパリでの出逢いがドラマの着火点であり、後半まで続く縁の始まりでもあった。散りばめられた点が、物語の至る所で線となり、その線が幾重にも連なり盛り上げていく、そうかそれが大河ドラマなのだな、と独りごち。

日本に戻ってくれば、幕府と薩長の立場が入れ替わって、主人公達の逆転が起こり、方や明治政府、方や賊軍である。会津戦争(いくさが、戦争という名称にいつの間にか変化していく)、函館戦争、西南戦争と、政府が賊軍(いわゆる江戸幕府側)を駆逐していく様がよくわかる。驚くのがそのすべてに参戦してる文ちゃんというね。最後にたどり着く先が、自由民権運動であるが、詳細は他に譲ろう。

ここで一番の見せ場が会津戦争。なるほど多少は知ってはいたが、なんと惨い戦であろう、鶴ヶ城の籠城、アームストロング砲での砲撃に火攻め、白虎隊、辱めを受ける前に自決する、それが日本の美学なんだろうか、そして繰り返される侍武士の哲学、藩のために命を捨てろ、城主のために死ね、
海外で西洋を見てきた文ちゃん(今更だけど主人公の名前で呼ばないでいいスか)には奇異に思え、生きねばダメだという念が生まれる。
これを境に、廃藩置県、廃刀令と、もはや武士を必要としない国へと変貌を遂げていく。
その時代のスピードを考えてみたらえらいこってすよ。江戸幕府が無くなり、天皇主権になって、明治政府が樹立して、九州連合がのさばり、ちょんまげはダサくなり、着物よりも背広、開国で西洋文化がどっと押し寄せ、今まで藩という小さな世界で考えていたものが一気に日本国という一括りにされ、刀は不要、誰が主君なのかも判然としないまま、歴(こよみ)は太陽暦に改暦、徴兵令、警察の成立と、それが数年のうちに変革されていく時代。
いやさ、それが意気揚々と愛国に燃える若き志士ならば別ですよ、もうヨボヨボのお爺さんならどうでしょう、老い先短し、主君に仕え、武士道に邁進し、いつでも切腹する覚悟で生き切っていた彼が、武士の魂である刀を取り上げられ、もう藩はありません、県になりました、と告げられ、若い奴らは西洋かぶれ、そりゃアイデンティティーの崩壊ですね。
その有様ったら、きっと人格崩壊してしまうほどのショックであろう。その悲哀が、この物語には描かれているのだ。
加藤嘉演じる、文ちゃんの父親役の壊れっぷりが涙を誘うが、それをどうしてやるコトもできない、時代は加速し、それぞれの思惑が絡み合い、大日本帝国憲法樹立へと歩を進ませていく。
時代の波からこぼれ落ちた者は、ただただそれを呆然と見送るしかないのだ。

忘れじのアジテーションだべし。
にしゃは、なじょすんべー。遠くから会津弁。

【archive】2016年9月26日