雑談とは禅問答と見付けたり~今日の思考整理~
私は精神・発達障害者として毎週訪問看護を受けていて
内容はまあゆるいカウンセリングのようなものなのですが
往々にして政治であったり経済であったり社会問題やら未来の予想についてなど
こんなくそ狭い激安物件の一室で語る事でもなし
ネットの情報程度の知識しかない世間知らずにそんなこと聞かれても答えようもない事ばかりで
とりあえずもっともらしい事は言えても、知見の薄い自分の考える事なんて子供レベルできっと見当はずれな事なんだろうなぁとしか思えないし
受け答えの拙さとかとっさの思考の鈍さに後々振り返って嫌になる事ばかりで
なんでこんな禅問答のような事に時間を費やさねばならないんだろうともやもやしていたのだけれど
もしやこれが雑談というものなのでは…?
と気付いてしまった。
これが…雑談…?発達障害者が苦手とするが一般人にとっては円滑なコミュニケーションに必要不可欠という…?
なぜ…こんな無駄な話が必要なんだろう…無駄だから…?
という事はそもそも私の受け答えの内容などはどうでもよく、相手も今頃きれいさっぱり忘れているやつか…?
内容がどうでもいい会話とは…何かしら発語すればそれでいいのが雑談なのか…?
なぜ…何故そんな無駄なことを…?
一般人…理解不能…。
とニンゲンを学習中のAIのような状態になってしまいました。
こんな事を言っていると私が余程共感性とか人間味のない、配偶者をかたっぱしからカサンドラ症候群にするタイプの発達障害者みたいなんですが
そんなことはないはずなんだけれどなぁ…?
昔から感動しやすくて映画を見てもゲームをしても名画を見てもビャッと涙が出てしまうし
自分でも感情も感性も豊かなタイプだと思うのですが…。
というか共感性とか感受性についてはきちんと医療機関で受けた心理検査で強めな方という結果が出ていますしね。
むしろ人の気持ちを感じ取りすぎて病んでしまっているのではないかという見立てなんですがそれは…。
まあそれでもこんな事言っていて
事実としてたまに人の心が分からないみたいな罵倒のされ方もされていたし
(私にしたらそれは『なんで私の思い通りにしないんだ!』という理不尽な癇癪にしか見えないのだけれど、それはそれとして普通に傷付く。少なくともその程度の人の心はあるぞ)
なにかしら世の中の多数派とは違う思考回路があるんでしょう。
でも、多数派の思う「発達障害者は共感性がない」って多分
多数派の皆様が思ってらっしゃるのとはちょっと違うんじゃないかなぁと思った次第でございますよ。
まあ私は発達障害としては黒寄りグレーくらいの軽度だからっていうのもあるかもしれません。
でもなにかロボットとか、フィクションのキャラクターとしてのサイコパスとかそういうレベルの想像している人が多いような状況には正直遺憾の意というか
別に私だって泣き笑い怒る普通の人間なんですがね。
っていう。
話を戻して、なんで雑談が禅問答になってしまっているのかですが
もし雑談のつもりなのだとしたら、もしかするとあれら
(政治とか経済とか世界平和とか未来予測とか)を
私が興味があって軽く語らえるトピックと思われているのかもしれない
そもそも雑談苦手出来ない人間としゃべらないといけない向こうの立場からしたら、話のとっかかりが欲しくて
比較的食いつきがよいそういうトピックばかり選んでしまっているのかも。
しかしだとしたら困った。
確かに興味がないわけではないし、他に適切な話題なんて10秒で終わる天気の話位しか思いつかないが
禅問答して私は楽しくない…。
終わった後にあー言えば良かったこれは良くなかったとくよくよもんもんするのも疲れるし
禅問答を軽やかに楽しむなんて一休さんみたいな精神性も持ち合わせていない。
真面目なトピックだから真面目に考えて返しているけれど、それは嘘とかごまかしとか適当が苦手な特性から聞かれたら答えてしまうだけなので…。
正直やめてほしいのだが、先述のように代替案もないので向こうとしても困ってしまうのだろうか。
しかし向こうもカウンセリングのプロなのだし、患者側に配慮させるより、そこはなんとかしてくれよというのが正直な気持ち。
ここまで書けば答えは簡単で、
これをそのまま伝えればいいわけですが。
それはそれで大変な労力が必要なんですけれどね。
思考整理にお付き合いいただきありがとうございました。