毒親育ちのブログとは
こないだ旦那と話していた。
私は毒親育ちなのだが、実は、私は「この親のこういった行動は、毒親ゆえの行動なのか、否か?」というのが自分では判断ができない。
だからブログとか日記に書いて、誰かに読んでもらって、感想を聞いて、判断をしてもらっている。
いや、もし誰も読んでいなくても、書いたものを自分で読むだけでも、充分に思考が整理される。
もしも誰かが読んで反応してくれるのなら、判断ができる。
毒親育ちの証明のようなものがほしいのだ。
そんなようなことを、手持ちの日記帳に書いて、旦那に見せてはじめて、「やっと、君の言いたいことがわかった。君がなぜ、ブログを本気で書いているのかがわかった」
と言われた。
実にたくさんの人が、毒親を吐くブログを書いている。毒親の愚痴のツイッターも多い(私はまだやっていない)。
でも、イイネが付かない。
だから続かない。
閲覧数がそこそこある記事でないと、ネット検索ですら見つけられない。
同志を見つけづらい。励みにならない。ある意味、孤高の戦い。
そうだとしたら、いつも自分は戦っているんじゃないか?
もしかして、毒親の記事って、読んでもわかってもらいづらい?
反応しにくい?
毒親育ちだと思われたくないから、足跡を残しづらい?
義実家や嫁姑のブログはあんなに沢山あって、あんなに読まれているのに。
毒親育ちじゃない人が読んでもわからない?(^_^;)
事実、「毒親育ち」だと書くだけで、普通の家庭育ちの人からのイイネは減る。
でも、だんだん「毒親」というワードの認知度が上がっている。
個人的にはとても嬉しい。
私もその概念を知って、生きづらさの理由がわかった気がして、生きやすくなったから。
普通の家庭育ちの人に読まれ得る要素?
客観性のようなもの?
ある種のバーズアイ?
が、必要なのだろうか…と思った。
私も手探りだ(笑)
ぶっちゃけ。
自分でできることは、自分を認めて、笑い飛ばすことだけだ。
私だって、リアルでは、なかなか毒親育ちだと言えない。
毒親育ちっぽい人の独特の雰囲気を察知してからでないと、カミングアウトできない。
ある意味、同志・仲間でないと…
ね。
だからこそ、私は匿名で書く。
ネットという匿名の世界で、「私は毒親育ち!」だと、声高らかに、叫んでいる。