「許さない事」が出来たら。
私「許さない」が出来ない。
綿密には「許さない」が分からない。
私が許さない事の意味が、理由が、状態が、理解出来ない。
心が広い訳じゃない。
ただ、「許さない」が欠落しているだけ。
「許さない」がない訳
私は全部許す。
「許さない」をしない。
何故だろう。
世の中には沢山の「許さない」が満ち溢れていて、私自身も人に許しを乞うのに。
私には「器」がないからなのかも知れない。
「許さない」を入れておく器がない。
許せない事を入れておくメモリーがない。(許さない:unforgivable)
無理に許さないを記憶しようとすれば、私は対象を破壊するか、消滅させたい欲求に抗う事ができないかも知れない。
少なくとも、攻撃を止める事は出来ない。
ただ、その攻撃を自らの価値観において承認出来ないから、精神症状が悪化する。
記憶を失い、攻撃を行う。そして、壊れる。
私は「許さない」を実行した時、自らも他者も破壊しようとする。
「許さないを入れておくメモリー」がないから。
許す事が出来るのではなく、許さない事が出来ないのだろう。
許さない事はある程度、深みを持った器の所有者にだけ許された、私にはまだ手が届かない領域なのかも知れない。
許さない=猶予
許さない領域が存在するとすれば、受容できない、寛容的ではいられない状態から、攻撃や破壊に至るまでの猶予だとも言える。
私は、その領域を持たないから、全ての現実を受容するのかも知れない。
私は現実は全て受け入れる。
抵抗しない。仮に、それが私自身の精神を破壊するとしても、もう抵抗する気も起きないし、抵抗する能力もない。
この世界は多くの「許さない事」による猶予で満ちている。
もしかしたら、それは社会の摩擦を軽減し、個人間の関係の破滅を防ぎ、時には戦争まで止めているのかも知れない。
政府は「遺憾」「抗議」という「許さない」を用いて、兵器攻撃を防いでいる。
許さない事で国民の感情に寄り添いながら、同時に対象に猶予を与えているのかも知れない。
「許さない」を手にする。
私が、この猶予スキルを手にするのは、どうしたら良いのだろうか。
まずは心の安定が必要であるし、現実に対して抵抗できる気力も必要かも知れない。
または、自分の心をフィルターとして機能させる事が求められるのかも知れない。
もしかしたら、「許さない事」が出来ない事も、私の心の病の一部なのかも知れない。
健全さとは、好ましい事を「許し」、好まざる事を「許さない」事なのかも知れない。
もし、私が私自身を「許さない事」が出来たなら、私は自らの現実の一部を拒絶する事が、今とは違う形でできるのだろうか。
絶望や諦めや失望や悲しみの代わりに「許さない事」が出来たなら、今よりも幾分か、良い景色を見る事が出来るのかも知れない。
自らに「不寛容の猶予」を与える事が「許さない事」を実行する事なのかも知れない。
もしくは「猶予期間」がいつか終わり、「寛容/不寛容の継続」の選択をする準備を出来るようになるかも知れない。
もしくは不寛容に費やしたサンクコストを手放して、忘却に至る決意が、この「許さない強さ」を実現させるのかも知れない。
許し、許されない世界
少し、思考で遊んだ。
許さない事について、考えた。
決して、「許さない事」が「悪」ではない事を考えた。
または「許されない事」が猶予であるのなら、それは失望ではないのかも知れない、と考えた。
許す事が、必ずしも許さない事よりも優れている訳ではない事について考えた。
実際、世界は許し、許される事で、今日も多くの情報と共に回っている。
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