性的指向と性自認の問題は別

最近、トランスジェンダーの人たちの性別をどう判断するかというような話から発展してトイレや温泉などの利用について様々な議論がされています。
中にはあまりにも馬鹿げた程度の低い議論もあり、正直なところ見ていて不快に感じるものも多いです。

さて今回はタイトルにもある通り性的指向と性自認の問題は分けて考える必要があるのではないか?という話をしていきたいと思います。
特に今回の記事では今までnoteで書いた事がない性自認について切り込んでいきたいと思います。

性自認とは自分の身体的性別とは別に自分自身を男性と認識するか女性と認識するか等の認識の事を言います。
精神的に男性、精神的に女性という言葉が抽象的すぎて説明が非常に難しいのですが、男女には身体的な違いだけでなく特性の差が多く存在しています。
この特性差というのは男だからこうでなければいけない、女だからこうでなければいけないという決めつけとは全く別です。

男は狩りに行き、女は子供を育てるというような原始的な♂と♀の役割分担というものは女性の社会進出が進む今の現代においてそのまま通じるものではありませんが、今現在もしっかりとその名残は残っています。
そもそも女性にしか子供を産む事ができないという条件からして、男女で役割分担をするのは自然であり必然であると僕自身は考えています。

では身体的性別と性自認が異なる場合に何が問題になってくるのでしょうか。
まず1番に言える事は社会通念上ある程度男性に求められる役割や女性に求められる役割が決まっている為に他者から求められる役割と自らの果たしたい役割、あるいは得意な役割に相違が出るという事です。
これは当事者にとっては苦痛を伴う事でしょう。
この問題に関しては性別によって絶対にこうであるという決めつけを避け、性別抜きにその人がどういう人間であるかという事に着目して捉えられるかどうかが肝心になってきます。

また性別適合手術を行わなければならないほどに身体的性別に違和感を感じる場合にはそれに伴う様々なリスクや本当に手術をする事が最善なのかどうかの判断など様々な問題が生じてきます。
このような問題はL、G、Bにおいては存在しない問題ではないでしょうか(特に性別適合手術については)。
ところが性的少数者という事であらゆる問題が"LGBT“として一括りに語られてしまう事が多いのが昨今の現状です。
しかし何故このように問題が一括りされてしまうのでしょうか。

その原因として大きいのは、同性愛者の中には性転換手術まではしないものの身体的性別にフィットしない言動の人たちが多いことにあると思います。
僕自身もおそらく異性愛者の男性に比べるとやや女性的な言動が多いと認識しています(今はそうでもないけど昔は特にそうでした)。
性転換をしているわけではないが、女装をしてオネエ言葉で話すゲイなどがメディアや新宿2丁目などで目立っている為、どうしてもそのようなイメージが抜けづらいのではないでしょうか。

メディアに出るような人たちや新宿二丁目で客商売をする人たちには生存戦略としてのキャラ作りというものがあります。
多少女性寄りな言動をしていただけのゲイの男性がゲイバーなどで働く事になった際にオネエキャラを誇張させた方が都合が良い、そういうキャラクターの方がウケるというのはあるでしょう。
或いはオネエキャラのゲイに囲まれる事で段々と感化されて言動が変化していくという事もあり得るでしょう。

しかしながら実際にゲイの当事者として様々なゲイの人と出会ってきた身として思うのは誰も彼もがオネエ的なキャラクターではないという事です。
ただ異性愛者の男性に比べると中性的な人が多いという事は言えるかなと思います。
このような紛らわしさがある中で性的少数者というカテゴリ(LGBTという呼称)で一括りにすれば、性自認の問題と性的指向の問題が混同しがちになるのは当然かもしれません。

さてここからは最初に書いた今ホットなトランスジェンダーの性別をどう扱うかについて書いていこうと思います。
まず第一に言いたいのは事実は事実として受け入れるという事が大切であるという事です。
トランスジェンダーの人たちが自らの身体的性別に違和感があり辛い思いをするというのはきっと当事者ではない人間には想像する事も難しい領域だと思います。
しかしながら、生まれ持った身体的性別だけは絶対に変える事ができないというのは念頭に入れておく必要があります。
これは決して性別適合手術に対しての否定ではありません。
たとえ性別適合手術をしたとしても、その人が元々持った身体的性別がどうであったかという事実は変わらないという意味です。

そして僕が何より問題視している事は事実そのものを捻じ曲げるという事に他なりません。
仮に自分が男性である事が嫌だと思ったから、自分は女性なんだと公言して男性の身体のまま女性として生きられるというのはおかしな話ではないでしょうか。
つまりこれは最近話題になっている完全に男性の身体でありながら女湯に入る事を容認する、こんな事はあり得ないでしょう。

トランスジェンダーについての議論の際に、性別を自由なものにするという論調で自己主張する人がいますが、実のところ誰よりも性別に囚われているのはそのような詭弁を垂れ流す人間に他ならないのではないでしょうか。
性別などただの生殖機能や性機能における区分でしかないはずなのです。
ところが元来存在する性差というもの自体を否定する、これは事実を捻じ曲げる行為でこのような風潮に対しては警鐘を鳴らしたいとそう考えています。

性差そのものの否定というのは実際に存在している事実を捻じ曲げて否定するという事です。
極端な言い方をすれば、生まれつき男性器があって性別適合手術をしたわけでもない人が「私には男性器がありません」と主張する事すらも成立してしまうという事です。
これを同性愛者の話に当てはめてみると、自らの性的指向を否定するというのも成り立ってしまいます。
自分がそうである事が不快だから不利益があるから認めない、このような未熟な自己防衛をいかにも正論であるかのように主張する事には何の公共性もありません。
このような程度の低い議論が発生している事自体が危機的状況であると言わざるを得ません。

おそらくこのような不毛な自己主張をしているよはごく一部の人だと思われますが、このような物議を醸すような主張の方が実際にメディアが取り上げたり目立つ可能性が高いのも事実でしょう。
このような主張に関してはトランスジェンダーの当事者としてもおかしいと思う人も多いと思いますし、ましてや単なる同性愛者からするとあまり関係のない話でもあるに関わらずLGBTの問題であるという一括りにされるのはおかしな話であると感じています。

本来すべき議論というのは、実際に性別適合手術をした人たちに対してどのような配慮が必要であるか、また制度上どう扱っていくのかという話ではないでしょうか。
例えば男性として生まれて性別適合手術をして女性になった人がスポーツの場で生まれつきの性差による身体的特性によって有利になってしまう事であったり、このような問題に対しての議論は当然ながら必要になってくるでしょう。

また性別適合手術をしていないが、身体的性別と性自認の不一致に悩む人に対してどのようなサポートをしていくかという事も大切です。
性別適合手術をする事のリスクなども踏まえた上で本人が本当にそれで幸せになるのかどうかなども慎重に検討する必要がありますし、性別適合手術をしないにしてもどのように生きていくのが本人にとって幸せなのか、社会が身体的性別だけで人の役割を決めつけずに1人の人間としてその人を判断するという流れは必要になってくるでしょう。

僕のnoteでは普段心理学などについて扱っていますが、今回の記事に書いた事実を事実として受け入れずに捻じ曲げるという行為に関しては他の記事でも未成熟な自己防衛であるとして批判的な立場を取っています。
引き続きそのような事実をねじ曲げてしまうスタンスに対しては断固としてアンチの立場でいたいと考えています。

事実をねじ曲げてまで他人にどう思われたいかを押し付ける権利というのは誰にもないはずです。
身体的性別と性自認が一致しないという事には相当な苦しみがある事は想像できますが、事実をねじ曲げてそれを解決しようとするのは悪手でしょう。
事実を事実として捉える事ができない未熟なメンタリティの人のワガママをただただ受け入れる事は多様性のある社会とはほど遠いのではないでしょうか。
違った人間同士が互いの存在を認め合い尊重する相互関係なしには多様性というものは生まれません。
多様性とは決して少数派に対して極端に権利を認める事ではないはずです。


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