追憶6(昭和40年代後半)
隣の市に転居して父の初めての庭付き一戸建てに住み始め、柴犬の子犬も飼い始めて1年後、弟が産まれた。
私が小3だったから9歳年下の弟である。
当時としては年が離れた弟だった気がする。
2年の学期途中で転入して来た小学校で、私を『九九の横綱』と名付けた担任はベテランの女教師だったが、3年生に進級したタイミングで異動だったか退職だったかで、新たに担任になったのは新卒の女教師だった。
徳島県出身との事で、阿波踊りが徳島の文化だと教えられ、未だに徳島イコール阿波踊りが刷り込まれている。
舐められてはいけない新卒教師と、生意気盛りの小学3年生と言う構図。
ある時、何かの罰で黒板の前に呼ばれた際に
「先生にそんな権利あるのかよ!」
と言うなりビンタされたのを強烈に覚えている。
義務を覚える前に権利と言う単語を知ったばかりで使いたかった自分と、体罰が当たり前だった時代に起こった悲劇?喜劇?だった。
記憶が確かなら、この頃に学級で鳩を飼い始め、それぞれの鳩に担当児童が割り当てられたと思う。
レース鳩の漫画もこの頃に流行っていた気がする。
しかし、冬のある日に登校すると私の担当だった鳩が凍死していた。
他にも学級でアメリカザリガニを飼育していたが、夏休みに誰も世話しなかったせいで休み中の登校日に校内が腐臭で酷かった記憶もある。(ザリガニの死骸にウジが涌いていた)
小3~小4
剣道は4級(始まりが5級だったと思う)、珠算も4級を取った。英会話教室はいつまで通ったのか記憶が無い。
小学校入学時からそうだったが、当時は『肉』と言えば『鯨肉』が当たり前で、給食には『鯨肉』を加工調理したものが多かったのだが、幼少時の私は肉も魚も野菜も苦手な食材で、家でも納豆、卵、デンブ、ふりかけ等しか食べられない偏食で給食には苦い思い出しかない。
完食出来ない児童は昼休み無しで食べるまで机を離れられない。
それでも食べられない場合は残した分を持ち帰る(実際は帰り道に捨てていた)
酷い時には5時間目の体育に行かせてもらえずに給食と睨めっこさせられる事もあった。
初めて家に電話が付いたのもこの頃だった。
それ以前の社宅では1棟に1軒だけ電話があり、親戚等から訃報などが入ると、その家からわざわざ呼びに来てくれて電話に出るシステムで、今では見られない『呼び出し』だった。
我が家に初めて電話が付いた頃はプッシュホンも出始めで、淡いグリーンのプッシュホンを導入した。