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追憶7(小学生時代終盤)

2年の途中から転入した学校にも慣れて、クラス替えも無く友人も増えていた4年時に父の勤務先が移転するとの事で、再度転居、転校するのだが、同じ関東圏でも他県で、それまでの環境とは違い公共交通機関も少なく大人は自動車が無いと不便な土地だった。

念願のマイホームに2年と数ヶ月居住しただけだったが、売却しないと転居先の家が購入出来ないので同じ勤務先の人に売ったらしいが、バブルの頃には10倍以上の価格で取引されているなどとは、この頃の父は想像もしなかったであろう。
商売っ気があれば、一旦は貸家にして家賃収入をそれまでの住宅ローンに充当して・・などと考えるが、私も受け継いだと思われる遺伝子『馬鹿正直』な父にその発想が無かったのは理解出来る。

父の勤務先移転によって、私と同じ境遇で転入した児童が多数いた為に、それまで各学年1クラスだったのが2クラスに増えたと言う規模の地方の小都市だった。

5年の始業式から登校したのだが、標準語を話す私の事が現地の子供たちにはカルチャーショックだったようで、少しするとイジメが始まった。

しかし、SNS全盛の現代のような陰湿なイジメではなく、単純に休み時間の遊び相手に不自由する程度だったが、担任教師の配慮等もあって徐々に友人を増やし、それに伴ってイジメも無くなり、学級委員長そして6年時には児童会長に選ばれるまでになった。
今考えても私の全盛期はこの小学生終盤だった気がする。

珠算だけは近所で続けることが出来たので、5年生のうちに2級を取得。
剣道は近くで出来る場所は無く、代わりに柔道を習い始めたが、これは昇級試験などの段階まで行かずに終わった。
英会話教室に関しては探す気にもならないほどの田舎だった。

転居前の住環境なら小学校も中学校も徒歩数分で行けたのだが、今回は小学生の足で20~30分掛かる通学で、近所の子供たちが集団で登校する『通学班』制度も初めての経験。
全校が4時間授業の土曜日には毎週この通学班で一斉下校もあった。

転居先の電話は何故かダイヤル式の黒電話。
小学校が週休二日になるなどとは夢にも思っていなかった時代である。






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