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『昭和16年夏の敗戦』猪瀬直樹

 朝テレビを付けたら、NHKのドラマでチラッと出ていたのは猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』の話し?

 猪瀬直樹は政治に近づきすぎたけど、ぼくは橋川文三の弟子だと思ってます。

 読書ノートをパソコン通信やインターネットなどに上げる習慣をつける前に読んだ本なので、ドッグイヤーぐらいしか物理的な読書の爪痕は残っていないのが残念ですが、本の趣旨とは関係ないけど、こんなところも印象に残っています。これだけでも1冊書けそうなエピソードを、エピローグ 的に惜しげもなく投入する若き猪瀬直樹は凄かったな、と。文章の硬質さは橋川文三の薫陶を受けている感じだし、いま読んでも素晴らしいと思います。

 東京裁判で日本側弁護人だった三文字正平弁護士は処刑されたA級戦犯の遺骨を回収しようとして、久保山火葬場近くの興善寺の住職に相談していた、と。

《興善寺から、下方の火葬場を観察していると、ホロ付トラックが到着した。午前七時半である。カービン銃を手にした米兵が火葬場を取り囲んだので事態はすぐに了解できた。のちにわかったことだが、巣鴨を出た米軍トラックを新聞社の車が追跡したため、いったん川崎市の米軍基地に車を入れてやりすごしたので到着が遅れたという。当局はそれだけ慎重だった。火葬には飛田場長と磯崎火夫長があたったが、そのとき、ひとつだけ血だらけの枢があった。

 それは広田弘毅のもので、鼻血がこぼれた結果だった。作業中に、GIが、「ワン・トウジョ―」といった。すると、責任者の米軍将校は大声でそのGIを叱った。誰の柩なのかは、区別ができないようにやれ、と厳命を受けていたのだ。遺灰は米軍が持ち去ってしまう。彼らがもっとも恐れていたのは、七人が殉教者になることだった。遺灰は飛行機で空から撒くことになっていた。

 米軍が持ち去る前、遺灰はいったん行路病者などの遺骨を入れる無縁の骨捨て場に置かれていた。一二月二六日の深夜、飛田場長と市川住職は、ハダシでそこに近づく。御影石のフタをとって穴をのぞくと、七人分の真新しい遺灰がひと山にまとめられ青白く光って浮かんで見えた。火かき棒であわてて、一部を収納した。寒い夜だった。犬がしきりに吠えていた。三文字弁護士はほとぼりのさめるのを待ち、翌二四年五月三日、熱海の松井邸に向かった。

 大きなトランクに遺灰を隠した。怪しまれないように三等車に乗るという気の配りようだった。松井邸には松井夫人のほか、東條夫人、板垣夫人、木村夫人、それに広田弘毅の長男が示し合わせて待っていた。

 こうして、七人の遺灰は興亜観音に秘匿された。吉田元総理が出席して「七士之碑」除幕式が公然と行われたのは、絞首刑から約一○年後の昭和三四年四月一七日である。

 しかし、占領軍の危惧に反して、東條らを殉教者としてあがめる風潮は生まれなかった。むしろ、逆であった。教科書を含めて、あの戦争は「軍部の独走」として片付けられ、国民はすべて被害者であった。悪いのは一握りの軍国主義者、という図式ができあがったのである。

 戦後の右翼の間でさえ、東條は人気がなかった。その図式が一般化してしまうと、興亜観音と「七士之碑」の所在などすっかり忘れられてしまうのである。

 皮肉にも「七士之碑」の所在を新しく知らせたのは、連続企業爆破事件の「東アジア反日武装戦線の“狼”たちであった。

 昭和四六年五月一九日午後九時五八分、興亜観音住職夫妻は「まるで飛行機が墜落したかと思った」ほどの衝撃音で腰を抜かさんばかりに驚く。「七士之碑」は粉々に散った。

 四年後の昭和五○年五月一九日、“狼”らが逮捕されて、初めて犯行が彼らの仕業と判明したのである。同年七月一八日の「朝日新聞」は、こう報じた。

 「大道寺(将司)らはこの爆破について、七士之碑は東條英機(元首相)らA級戦犯の慰霊碑、興亜観音は中国侵略の祈念碑、新旧植民地主義に対するイデオロギー戦争として行った、と自供している」》(文春文庫、p.205-208)

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