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『キリスト教の幼年期』エチエンヌ・トロクメ
『キリスト教の幼年期』エチエンヌ・トロクメ(著)、加藤隆(訳)、ちくま学芸文庫
文庫化される前は『キリスト教の揺籃期』新教出版、1998で、もう20年以上前に出たというか四半世紀前というか初めて読んだのは前世紀なんだな、と感慨にふけってしまいました。
この本で衝撃的だったのは、ペトロの地位。
カトリックではマタ16:19(わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる)を根拠に、永遠の教会の指導者となるのですが、使徒行伝を読むと、エルサレムにいた使徒たち(イエスの弟であるヤコブが中心)から、サマリアの地にヨハネとともに派遣されることになります(使8:14)。この「行かせた」と約されている原語はavpe,steilanです。しかも、派遣された地は、ヘレニストたちが逃げ、同時に布教も行っていたサマリアです。
この『キリスト教の揺籃期』では「霊に満ちて、ほとんど神的ともいえる権威を有した指導者であったが、あちこちを移動する伝道者の地位に下落した」と書いていますし、トロクメ先生の最後の著書となった『聖パウロ』加藤隆訳では、パウロとペトロのグループが互いにローマ帝国の警察権力に相互の告発を行い、それにとって処刑されていったのではないか、とも指摘されています。
ぼくは、『使徒行伝』は世界で初めて社会運動の組織内政治を描いた本ではないかと思っていました。そのトップであったペトロの地位については、《ペトロに関する最良の研究は、依然としてOscarCullmannmSaintPierre,Disciple,aporte,martyr,Neuchatel-Paris,1952[荒井献訳『ペトロ弟子・使徒・殉教者』1965年]》としています(p.64)ので、ご参考のため少し紹介しますが*1、『キリスト教の揺籃期』を改題した『キリスト教の幼年期』を読んだのは、訳者あとがきでトロクメ先生との思い出が綴られていたから。
印象的だったのはプリンストンに招待されていたトロクメ先生が訳者に声をかけ「キリスト教は、なぜアジアで広まらないのか」をテーマに講演をした時のもの
--quote--
参加者は、神学・聖書学の専門家十名くらいの少人数である。しかし、世界にさまざまなタイプの文明があるということが、彼らにはまったく分からないという感じだった。理解しようと努力するのだが理解できない、というのでなく、さまざまな文明があるといこと思ってみたこともない、あるいは、さまざまな文明があるということを思いたくない、という感じだった。彼らが西洋人でしかなく、西洋世界の限界に閉じ込められている。このことをなんとか打開しなければというのではない。西洋世界の限界に閉じ込められている、この状態でそっとしておいて欲しいのだと思われる。
夜、神学関連の研究者が集まるパーティのようなところに、トロクメ先生夫妻と私とが招待された。アメリカ風の自由な雰囲気の立食のパーティである。外国からきたトロクメ先生夫妻と私のような人たちを歓迎する、といった意味合いもあるようだった。ところが、会場に行ってみると、アメリカ人の研究者たちは、私たちに興味をもつでもなく、また神学関係の話をするでもなく、パーティの間ずっと、株の相場の話をしていた。参加者は、全部で五十名くらいだったろうか。私たちは、飲み物を手にして、ぼんやり立っているだけだった。トロクメ先生夫妻も、このことについては、憤慨しておられた。こうした無礼を集団で行うのは、個々人の礼儀知らずの問題ではなく、もっと深い問題があると思われた。
ちくま学芸文庫版への訳者あとがき(p.313-)
--end of quote--
としているところ。こうした態度をとるのは自分たちの文明圏以外の、アジアだけでなくフランスさえも怖いからではないか、としてモルトマン教授との会食での、これまた悲しいエピソードも紹介しています。
聖書学の業界ではドイツと英語圏が本場ということもあるんでしょうが、《アメリカ人の研究者たちは、私たちに興味をもつでもなく、また神学関係の話をするでもなく、パーティの間ずっと、株の相場の話をしていた》という場面はシュールです。
最後に。タイトルを替えて文庫化するのは版元の権利ですし、旧民法では契約は20年なので、こうしたことは致し方ないかな、と。
*1
『ペトロ弟子・使徒・殉教者』オスカー・クルマン(著)、荒井献(訳)、1965によるとペトロはイエスの弟子のなかで、絶対的な人物ではありません。共観福音書自体がイエスの偉大さを強調するためか、必要以上に弟子たちの姿を愚かに描いているせいもありますが。
また、ヨハネ福音書も「明らかにイエスと愛弟子との特別に深い関係を強調しようとするこの福音書が、それにもかかわらず、いかなる箇所においても、弟子団におけるペトロの特別な役割を直接に抹殺しようとしておらず、ただ、彼の特別の役割と並んで愛弟子の別種な地位があることを示そうとしているかぎりにおいて、弱める傾向を持っている」(『ペトロ弟子・使徒・殉教者』p30)
また、ヨハネ福音書において、最初の弟子は「以前に洗礼者ヨハネの弟子であった二人、ある無名の者とペトロの兄弟アンデレである」(同、p31)で、41節で使われている「まず」(πρωτον)は、シナイ写本オリジルをはじめ大部分の写本がπρωτοsと主格に読んでいます。
主格に読むとどうなるかといいますと、ペトロの兄弟アンデレが主イエスに従った最初の人である、という意味になります。ところが、バチカン、パピルス66、75、シナイ修正、アレキサンドリアなどは対格のπρωτονと読みますが(新共同訳などもこれに従っています)、こう読むと、アンデレがイエスに従ったのち、最初にやったことはペトロに会ったことなのだ、という意味になります。この箇所はヨハネ福音書でも、ペトロの地位に関して、混乱があったことを反映しています。
これは、直接、関係がないかもしれませんが、クルマンの、行伝にあってヨハネの名がペトロと並べられているのは、後代の加筆ではないか、という指摘は面白い推測です。その前提としては「第四福音書の無名の愛弟子がすでにこの時代においてヨハネと同一視されていたとすれば」(同、p38)というのがあるのですが。
とにかくそうした絶対的な存在でない人間が、イエスの死という「イエス・グループ」とでも言うしかないような共同体の中で、押し出されるような格好で、トップの座に座ります。
ここで、実際にどのような統治形態がとられたのか、意志決定機関はどのようなものであったのか、ということは詳しくはわかりません。しかし、行伝の5章までに書かれた様子から伺うと、ほぼ、ペトロの独裁的な政治(権力の行使)が行われていたのではないでしょうか。そして、その政治は稚拙で愚かなものとしか思えません。
マタ16:19「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」で書かれているイエスの言葉は、カトリック教会にとってローマ法王の至上権の根拠のひとつになっているのですが、行伝のアナニアとサフィラに対するペトロの「判決」や、魔術師シモンへの「判決」にも、このマタイ独自資料の言葉が反映されているかもしれません。
『イエスはヘブライ語を話したか』(ビヴィン/ブリザード、ミルトス、1999)によると、70人訳で「解く」と「結ぶ」にギリシア語に訳されている旧約聖書の単語はasr(アサル)とhtjr(ヒティル)ですが、このうち「つなぐ(アサル)」は「禁止する」という意味がイエス時代になって加わったことが、ラビ文学などで確認されるとのこと。「イエスは自分の亡き後、初代教会が直面する問題に対して、聖書による解決をくだす権限をペトロに与えた」(『イエスはヘブライ語を話したか』p163)なのですが、そうした権力を行使する機会を与えられたペトロは、初期共同体での稚拙な政治によって、サマリアに追放されるように出されていったということも考えられるかな、と当時は考えていました。