【雑記】Mr.Childrenの『擬態』と障がい者
ミスチル大ファンの私
突然ですが、私は小4でMr.Childrenに出会って以降、30年来のミスチルファンです。「一番好きなアーティストは?」の問いには、30年間「ミスチル!」と即答し続けてきました。
特に好きな要素は、フロントマン・桜井和寿さんが書く歌詞。悩んでいるとき、迷っているとき、嬉しいとき、イケイケなとき、怒ってるとき、絶望しているとき、抜け殻になってしまったとき…湧き上がる感情の全てに対して、桜井さんの歌詞は共感を、説明を、誘導を、時に叱責をもしてくれるのです。基本的には私は、桜井さんの書く歌詞を鵜呑みにして生きていると言っても過言ではない。
そんな私にあって、出会った瞬間から比較的最近に至るまで、(珍しく)上手に飲み込めずにいた歌詞の一節があります。今回は、これについて書いてみたいと思います。
『擬態』という歌詞の一節
2010年末にリリースされた、Mr.Children 16枚目のオリジナルアルバム。そのリード曲であった『擬態』。一言で言うと「酸いも甘いも呑み込みながら、泥臭くとにかく前に進むんだ」という決意表明を描いた曲だと私は解釈しています。シニックも含みつつもあくまでポップ、流麗なメロディと爽快感のあるアレンジに乗せて歌われたこの曲を、私も当然大好きです。大好きなのですが…聴き返すたびに、Cメロ部分の歌詞にわずかな引っ掛かりを覚えてしまうのです。
ーー障害を持つ者はそうでない者より不自由だって誰が決めんの⁉︎
一見、疑義を唱えようのない正論なんです。「そうだそうだ、何が自由で何が不自由かを決めるのは当事者なんだ! 周囲が勝手に価値観を押し付けるのはおかしいんだ!!」と、私もそう思います。一方で、そう思った瞬間にまたこうも思うのです、「だけど実際問題、どう考えても障がいのある人の方が不自由を感じる事の多い世の中じゃないか?」と。この2つの想いは、光と影のように表裏一体で、いつでも私の頭の中に浮かぶのでした。
どの視点から、この歌詞を読むのか
私には、自身にすっかり“支援者としての視点”が染み付いている自覚があります。つまり、“当事者”でもなく、“無関係の第三者”でもなく、“隣(もしくは近く)に居る人”としてのモノの考え方です。
ちなみに、本当は“隣にいる人”の視点ではイケナイのだと思います。特に近年は福祉の現場でも個別配慮(つまり、「当事者の視点に立って、当事者が必要としているサポートをする」と言う事)の重要性が声高に叫ばれるようになったので。しかし、20年以上も重度知的障がい者支援の現場に身を置いてきた(そしてあらゆる挫折や失敗をしてきた)中で、
▶︎本当の本当の本当の本心は、他人には分かり得ない
▶︎あくまで“他人”である相手の本心を、分かったつもりになってはいけない
という2つを悟り、その結果結果辿り着いたのが「“隣にいる人”の視点で事象を認識する」というスタンスなのだと自己分析しています。
閑話休題。“隣にいる人”の視点でこの『擬態』の歌詞を読むと、
▶︎「でも、言葉を字義通りにしか解釈出来ない人よりは、言葉の裏側にある真意を汲み取れる人の方が他者から好かれるじゃないか」
▶︎「でも、忘れ物が多い人よりも忘れ物をしない人の方が社会的信用度が上がるじゃないか」
▶︎「でも、“列に並ぶ”を理解出来ない人より理解出来る人の方が、公共の場で活動し易いじゃないか」
となってしまうのです。上記の例はいずれも、個人の努力や工夫の範疇の問題ではなく、“想像力の障がい”“注意欠陥障がい”“社会性の障がい(もしくは知的障がい)”という障がい特性から来る生きづらさなので、「こういった障がいは、無いに越したことがないじゃないか」「障がいの無い人よりもある人のほうが、実際問題不自由じゃないか」という思考になるわけです。何なら、「当事者の気持ちを代弁してあげている」くらいの気持ちから来る反論です(恐ろしい思い上がりっぷりですね)。
しかし、この『擬態』の一節を、とあるきっかけで“当事者”の視点で読み直す機会があったのです。その時、全く異なる受け取り方をした事を、今でもよく覚えています。
私自身が、病気を経験して
私には、職場における人間関係と仕事内容に悩んだ結果適応障害と診断された過去があります(この時の事についても、いずれ何かの機会に)。その名の通り、特定の環境に“適応”が出来ない“障がい”です。
診断を受けた後にまず直面したのは、「非はどちらにあったのか?」という自問でした。あけすけに言うなら、「悪かったのは、相手か僕か」。自身に非を置くと、自身を無価値な人間としか思えず生きる意味すら失う。組織の側に非を置くと、他者批判と自己弁護ばかりが堆積し攻撃性だけが増す。どちらに転んでも別の地獄に向かうだけ、という日々でした(今振り返れば、それは二者択一などではなく、言わばボタンのかけ違えのようなものだったのだと理解出来ます。小さいボタンホールに大きなボタンが通らないのは、どちらのせいでもないように)。当時、答えの無いこのような問いに悶々としていた時間の中で『擬態』の歌詞を読み返した時に、それまでとは違った解釈が脳裏に広がった事をよく覚えています。
私は、組織との摩擦により休職した。しかし、それを周囲から「可哀想」だなどとは絶対に思われたくなかったのです。なぜなら、休職期間にはご飯の味も感じられるようになったし、家族との会話で笑顔が出るようになったし、ミスチルの歌詞も心に届くようになったから。“組織人としての私”ではなく“個人としての僕”として自分を俯瞰すると、適応障害との診断を受けそれを自覚してからの自分のほうが余程生活を楽しんでおり、「・・・あ、適応障害を自覚してからのほうが、僕は自由かもしれない」と思い至ったのです。「障害を持つ者(=適応障害を抱える自分)がそうでない者(=過去の自分)より不自由だとは、確かに限らないな」と(※私の場合は“障害”ではなく“疾病”ですが)。
当事者が、自身の生活をどう捉えているのか
私は、発達障がいではありません(多分にその傾向がある事を自覚はしていますが、診断はされていません)。だから、上記のエピソードをもって「発達障がいのある人たちも、障がいがあるから不自由だと思っている訳ではない」と言い切る事など全く出来ないのです。ただ少なくとも支援者(“隣に居る人”)として、十把一絡げに「障がいのある人のほうが不自由だ」という前提でモノを考えるのは絶対に違うな、と思うようにはなりました。そして、そういったマインドで『擬態』(のCメロ)を聴くようになって以降、この一節への引っ掛かりが面白い程に無くなった事は確かです。現在では、この一節には共感しかありません。
ーー障害を持つ者がそうでない者より不自由だって誰が決めんの⁉︎
大切なのは、当事者が、自身の生活をどう捉えているか。障がい受容の面だけでなく、あらゆる場面において本当にそう思う昨今です。
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