コロナで学校行事が潰れることは、高校生にとってどのような意味を持つのか。
また一つ、イベントが消えていく。
僕は今、高校に通っている。2年前、高校受験終了と同時に緊急事態宣言が発令され、休校期間に入った。4月に入学式だけ済ませ、また2ヶ月休み、6月から少しずつ学校は再開していった。しかし、オリエンテーションの宿泊行事は当然のようにキャンセルされ、体育祭も文化祭もできなかった。
正直これは仕方ない、と思った。まだワクチンが出来ていなかったし、感染も拡大していたからだ。僕たちは次年度に望みを託した。
実際、2年生になってすぐに体育祭が開催された。感染対策を徹底しなければならなかったので「やっとイベントだ!!」という気持ちにはならなかったが、中々悪くなかったと思う。クラスの仲間たちとも応援旗を作って団結することが出来た。数ヶ月後の文化祭も楽しみだった。
ただ、それから立て続けに文化祭、修学旅行が中止になったのはかなりメンタルに来た。友人達にもニヒルの影が差している。
特に修学旅行中止の発表後は顕著だった。数日後に待ちに待った文化祭が控えているのにも関わらず、モチベーションが全く湧かずに準備も進まなかった。
何が、僕たちをどう変えたのだろう。
期待
僕たち2年生は驚くほど文化祭の準備をしていなかったが、1年生は毎日遅くまで残って準備を進めていた。部活が終わり、下駄箱まで歩いていくときによくそれがわかる。1年生の教室は賑わっているが、2年のは暗闇に包まれているのだ。
では、どうして1年生は希望を持って文化祭へ向けて突っ走れるのに、2年はできなかったのだろう。
僕は今、希望という言葉を使った。答えは簡単だ。僕たちは希望を持っていなかったのである。
希望をかける、すなわち期待をするということは、それが叶わなかった時の苦しみを増幅することだ。僕たちは何回も「華の高校生として初めての行事」に期待をしてきて、ほとんど全てが砕け散った。ならば、最初から期待しなくなるのが自然だろう。脳はそうやって学習していくのだから。
でも、心がどこかで「今度は開催されるといいな」と囁いている。1年生のときに文化祭、体育祭が中止になったときも「来年は今年の分も楽しもう」と仲間と誓ったし、期待は捨てたと上で書いておきながら「来年こそは」と今も思っている。
しかし、恐らくは次のイベントが決まっても「今回もどうせ中止になる」とモチベーションは湧かないだろう。「よーい、ドン!と言ったらスタートね」というフライングも、何回もされるとうんざりする。次こそはスタートだ、と思ってもまた次に来るのはフェイントだ。
僕が大人になっても、何かに期待できなくなってしまうのではないか、と心配になる。どうせうまく行かないから、と。少し怖い。
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