ひかりの当たる場所

高校生の時、自分が無知であることで人を傷付けてしまうことがあることを知って、その事実にあたしは傷付いた。優しい心と他人を気遣える精神だけでは、他人の苦しみを和らげるのに限界があると知った。逆を言えば、それらさえあれば、人は人を救えると思っていた。まだ現実を知らなかった、世間知らずなころのあたしだ。その頃はその頃で、幸せだった。勉学に励むことは学生の時代だけで終わらせてはいけないと、今ならよくわかる。知らないことは山ほどあって、あたしはどんどん歳をとりながらも、どんどんいろんなことを知って、日々学んでいくのだと思う。

あたしもとりわけ聞き上手、というわけでもないけど、他人の話を聞けない人にはほんとうにうんざりする。自分がひとしきり話したあとに、なんともいえない反応をされると、話を聞いてないとすぐにわかるし、聞いてないなら話さなければよかったな、とさえ思う。自分の言いたいことばかり言う人と友だちになろうと思う人は少ない。自分は聞く専門で、喋りたくないし、聞いてほしい話もない、という人は別だけど、自分の思っていることや考えていることを言わない相手は、あたしにとって間違いなく友だちではないので、聞いた分言いたいし、言った分、聞いてあげたい。

あたしがこんなことを、つらつら書いているこの瞬間にも、富はどんどん一部の人に独占されて、どこかで大切な森が燃えて、不正な賄賂が政治家の手に渡り、どこかの島が沈んでいくことは確からしく、とんでもなく悲しい事実にいてもたってもいられなくなる。住んでいる場所や性別、家柄や人種、宗教等でやりたいことが制限されて、自分の思うように日々を過ごせず、夢や希望からどんどん遠のいていく人が、どうか減っていきますようにと毎日願っている。そんなことがあってはならないと思うから。誰かのそんな権利を奪っていい誰かは存在していいはずがないから。誰にも奪われない、その人だけのもののはずなのに。

生きるハードルを上げすぎて、自分は息を吸って吐いてるだけしかできないと思ってしまう人々を、これ以上苦しめるのはやめてほしい。貧しい人を助ければ、会社の社長であれば、何か便利なものを開発したら、偉大であるということに間違いはないけれど、それができなかった人々が偉大ではない、わけではないと大きな声で叫びたい。

あたしたちは、生きているだけで偉大。この世に生を受けた瞬間にもう偉大。誰かの大きな役に立たなくても、素晴らしい。役立たずだろうが、クズだろうが、なんだろうが生きてるんだから偉大。多様性とかいう言葉をいとも簡単に振りかざすなら、見えてないところにもきちんとスポットライトを当ててよ。「多様性を認める」なんて言葉はいらない。多様性は、もうずっとずっと前から存在していて、気付いていなかったのは、あたしたちの方。あなたに認めてもらわなくても、もうとっくのとうに存在してる。それに気付くべきなのは、紛れもなくあたしたちなはずだ。

いつから人は、人を排除するようになったのか。どんな顔をして、人は、人を排除しているんだろう。多様性はもう、すぐ目の前にある。これはあたしたちと違い、絶対に逃げも隠れもしない。あたしは自分を誰にもカテゴライズさせたくないし、ラベリングもさせたくない。誰かにテキトーにグループ分けされ、よくわからないラベルをペタッと貼られた格好で街中を歩くなんてごめんだ。


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