自分の「価値」のはなし
「出る杭」になってください。「出る杭」を眺めて、嘲笑するだけの人にはならないでください。その人は、一生出る杭になれず、勝手に他人のことを自分の価値観で評価して、蔑んで、満足しているだけの人間です。その人にはそれしかできないのです。
小さい時から将来の夢が決まっている人も、大人と言われる年になっても特に夢はない、という人もいます。夢があってもなくても、どちらがいいか悪いかなんていうことはないと思います。今は夢を持ってて、それが自分の一番やりたいことだと信じ、突き進んでいる途中に、予期せぬことが起こり、その夢がかなわなくなることもあるだろうし、それがまた別の夢に変わることもあると思います。そして自分が何になりたいかなんてわからない、と思う人も、ほんとうに何にもしたくない、という人ばかりではないとあたしは思います。心の底にはやりたいことがあって、その存在に気付いているけど、気づかないフリをしていたり、羞恥心が邪魔をして言い出せない人もいます。そしてやりたいことはあるんだけど、それに本人が気づいていなくて、人と話していて気づくこともあります。自分はこんな風に思っていたんだ、と。自分の知らなかった自分を、他人に引き出してもらうという不思議なこともあるものです。でもやっぱり、ほんとうになんにもやりたくない、という人も中にはいるんだと思います。そういう人に会ったことあるからです。
あたしは若い頃、永遠に自分の価値を探し続けていました。自分の価値がどこにあるのか、なんなのか、自分の中で問い続けてきました。でもはっきり言って、それをやりすぎて、突き詰めすぎてしまって、疲れました。こんなこと、もうやるのやめたいな、と思いました。そしてある時、ふと思ったんです。あれはお風呂に入っているときだったんですけど。自分の価値を模索しているとき、最初にまず、「あたしに果たして価値はあるのか?」という疑問に答えることから始まるんです。そして立ち止まってしまう。え、もしかしてあたしに価値なんてなくない?となってしまう。あたしにはどんな価値があるだろう、という素朴な疑問からスタートした問いが、自分に本当に価値があるのか、という壮大な哲学的疑問にまでなってしまったんです。いつもは、「価値か…きっとそんな大層なものは、あたしにないな…」と誰にも見えない心の中で、見えないその誰かに向けて自分を謙遜していた。あたしはめちゃくちゃ謙虚な人間ですよ〜!アピールをしていた。見えないのに。そうであれば、きっと故意に他人から傷つけられることがないと思っていたからだ。そんな時に思ったんです。これ、やめよう、と。あたしに価値があるって、まずあたしが認めよう。「あたしは、価値があるに決まってる」と。
この話に真相なんてないし、嘘もありません。信じるか信じないかの話だと思います。そんな風に言ってしまうと、新興宗教みたいでこの話を進めていくのが怖くなるのですが、ほんとうに好きに解釈してもらって構わないはずなんです。
そもそも、「価値があるか」なんて疑問を自分自身に問いかけたのがバカだったと思います。この世に生まれたんだから、価値があるに決まってます。生まれるべくして生まれたに決まってる。やっぱり生まれなかったほうがよかったわ、、、なんて命はないはずなんだよ。もう生まれた瞬間から、その価値なんてのは一緒についてくるんだ。オギャーと産声をあげてこの世に爆誕したその時に、この世に一緒に「価値」を連れてきてるはずなんだよ、誰しも。 だからあたしたちにできるのは、その価値を自分で認めてあげることだった。あるんだよ、そこに。
最後、タメ口になったのは、今まさに教室の窓枠に手をかけている子どもたちに、選択肢はそれだけではないよ、と教えてあげたいから。あなたは悪くないと伝えたいから。今、あなたが辛いのは、あなたのせいじゃないと言いたいから。
以上が、教員免許もなにももっていないあたしが将来、校長先生になったら、「校長先生の話」で話そうと決めていることです。