みなさん、今年も
2019年は、今まで生きてきて一番死にたい年だった。
今はこんなこと書きながら、なにを言ってるんだろうと思って笑えるけど、そう思ってたときは、ほんとうに笑えなくて焦ったのを覚えている。あたしは死ぬのかもしれない、と。もとより、死ぬ勇気なんて今だって、そのときだってなかった。血を見るのも嫌いだし、痛いのも嫌いだし、苦しいのはもっと嫌いだ。自殺なんてできるわけなかったのだ。ただ、砂丘や砂漠の砂が、風に吹かれてサラサラと消えて無くなるように死ねるなら、死にたい、という、そういう前提があっての「死」であったのだと、今なら冷静に分析できる。
不思議なもので、今年が始まったとき、こんな悲惨なことが起こる予感なんて全くしてなくて、むしろ、最高の一年になると思っていたから、「ほんとうに人生はなにが起こるかわからない」という事実を身をもって体験したということになる。でも死ななくてよかったと思う。生きててよかった。
まだまだ、どうしていいかわからないことがたくさんあって、頭の中でモヤモヤする。どこから手をつけていいのかわからないし、そのために何かをすることが合ってるのか、間違っているのかもわからない。ほんとうは夢だったことが、もう完全に不可能なところにいて、これからもそれを追い続けていいのか、キッパリ諦めるべきなのかあたしには分からない。もうサヨナラなのかもしれない。でも、やらなきゃ、頑張らなきゃ、と思うほどそれは遠のく気がして、それもそれで気が滅入る。とんでもなく滅入る。あたしには、もう少しの、ほんの少しの、「大丈夫だよ」が必要なんだよな。悲しそうに微笑みたくはない。心からの笑顔で、笑っていたいのだ。
「普通でいたくない」とか「みんなと同じじゃ嫌」とか言って、イキり通していたあの頃の自分に言ってやりたい。あんたはもう、十分なほど普通じゃない。普通じゃない選択をしてるから安心しなよ。よかったな、あんたの希望通り、普通じゃない人間になれたんだよ。その選択は、悪いことではなかったし、むしろ自分に合った決断であったことは、その決断を決めたあたし自身が保証する。きちんと考えて出した答えだったよ。でもその普通じゃない選択のおかげで、とんでもなく泣きじゃくって、心が擦り切れて、生きているのが苦しくなった。こんな選択をしたからだ、と自分のことを責めたりした。こんなことになるなら、無難で普通なみんなと同じでいいんじゃないかと、何度考えたのかわからないくらい、考えた。バカみたいだったよ。
でもそのおかげで、思わぬ形で出会った自分がいるから、なんとか今までやってこられた。痛みや苦しみを感じてしまうならこの心、どこかにやってしまおうと思ったけど、感動や幸せを感じるのもこの心なら、やっぱり丸ごと愛してあげたいと思った。あたしはまだ面白いことで笑いたいし、友情や奇跡に涙したい。あたしはあたしをもっと愛してあげていい。可愛がってあげていい。誰かに愛されるのを待たずに、自分が速攻で愛を注いであげていいに決まっている。最近よく聞いている 緑黄色社会の sabotage という曲の歌詞が言うように、「なんだか今なら 愛されるより 愛したいとさえ思う」って思えるくらいの心意気でいたい。愛されるのを待っててたまるか。あたしから愛しにいくんだ。ゴミでもないし、ヘイトでもないし、嫌悪感でもない、愛という存在に、世界は早く満たされるべきなんだ。来年はきっと愛。