数ある分岐点のうちのひとつの話
前略、今年も無事に誕生日を迎えた。31歳になる。
12月も半ばの生まれだと翌年との境目もやや曖昧で、ゆえに人より少し早く「xx歳の抱負」という名の「来年の抱負」を考えたりする。
昨年は確か『周囲の人達を大事にする』とか掲げようとした矢先に「ありきたりすぎて微妙」とその場にいた友人から何故か却下、困惑した末に『本気で笑ったり泣いたりする恋がしたい』と、いやいやそれ目標というよりも願望じゃないかと思えるようなものに落ち着いた。
……結果は、とても恋愛どころではない1年だった。大病はなく、不幸もなく、ただ昨年以上に目の前の仕事などに翻弄され、しかして私自身の成長は特に実感がない。それどころか、私が直接関与していないところで一方的に絶交を言い渡されたり、謎の誤解を招いてになった友人がいたり、
そんな具合なので今年はどうしようかと余計に考える羽目になる。叶えられない目標を掲げても意味がなく、それこそ単なる願望なんて以ての外で、そうなるとやはり色恋ではない気がしている。
少しだけ話が逸れてしまうが、私の好きな作品に『3月のライオン』*1というのがあって、その作中で主人公が「クリスマスは1年間どうだったかの通知表みたいなもの」と表現する場面がある。
これには私もほぼほぼ納得で、ただ唯一異なるのは「どちらかというとクリスマスより誕生日じゃない?」ということだけだ。それこそ「人から祝われた分だけ、人と繋がれたのかが分かる」なんて考えてしまう。そんなもう一人の自分が心のどこかに住み着いていたりするのだ……。
そういう意味では、ここ半年くらいの間に多くの人との縁が途切れたり薄くなってしまっていた。私が幹事を務めていた日本人会も一方は4月の連休前を最後に停滞、もう一方に至ってはタイミングをことごとく逃し続けて今年1度も開催できておらず、ロックダウンも相まってまともな送り出しもできずに見送った友人・知人だって少なくない。加えて新たに赴任してきた方からの問い合わせには、「来月下旬か再来月には開催できるかと~」という希望的観測を書き足すのがせいぜいだった。お察しの通り、その"来月"が来た試しは一度も無い。
……ところで、私は普段から苗字で呼ばれることが圧倒的に多い。厳密には苗字+"くん“・"さん“・"ちゃん“のいずれか。名前で呼ばれたり、あだ名が付けられていたのは地元にいた頃が最後なはず。周囲の人には既にあるあだ名や適当に思いついた呼び名で呼ぶくせに、私にはそういう類のものは一切なかった。
そう考えると、なんだか急にフェアじゃない気がしてくる。……いや、別に「今日から私の事は○○って呼んで!」って言いふらして回るのは、それはそれでおかしい事なのも理解しているけれど、それでも敬称のないストレートな呼び名が欲しい気がした。
そうだ。次の1年はもっと人との距離を詰めていきたい。全ては「広く浅い人間関係ばかり作りがち」という私の悪癖、その解消のためにある。まずは手始めに、名前やあだ名で呼ぶと同時に呼ばれる頻度も増やしていきたい。きっかけとしては悪くはないはずだ。
そして実は、営業の仕事にも近いものがあるかもしれないとも思う、要は見込みのある営業先に対しては深堀り……というやつ。だからといって「nn人以上に名前で呼んでもらう!」なんて具体的に数字を決め出すと、今度は仕事の目標みたいで憚られるので、さすがにそこは避けるけど。
*1 羽海野チカがヤングアニマルで連載中の漫画。将棋を題材とするが、話の主題は不器用ながらも懸命に生きていく最年少プロ棋士の主人公の日常に置いている。
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