写真と眼差し
写真は眼差し。誰が言ったのか知りませんが、写真を撮るようになってから何となく聞き覚えのある言葉の一つでした。この言葉の意味を身を以て体験し認識して納得できたのが二年前でした。
二年前、僕は自分の結婚披露宴で流す映像を作っていました。あるシーンで幼少期の写真が必要になり、実家で写真を探すことにしました。よくあることですが、アルバムを見ていると本来の目的を忘れてしまうもので、気づいたら僕は昔の写真を見ることに夢中になっていました。どれも懐かしく少し照れるようなものばかり。昔の写真を見ると蘇ってくるのは記憶と言うより感情に近いものなんですね。
そしてこの時、僕は写真=眼差しということを強く感じることになります。きっかけになったのはある一枚の写真。生まれたばかりの僕を抱き抱えて母が笑っている写真がありました。この写真を見ているうちに、これは父が僕と母を見ているとそのままの光景なんだと気付きました。父が撮ったのだから父が見た光景が写っているのは当たり前なんです。けれどより強烈に、ただの写真ではなく、父の眼差しそのものが写っていて、写真=眼差しという関係性が自分に納得のいく形で理解できた瞬間でした。上手く言葉に出来ないのが歯がゆいのですが、簡単に言うと「あ!アレって本当だったんだ」という感覚です。写真は眼差しって言うけれど、実際どうなんだろう?という疑問の答えを見つけられたような感覚というのでしょうか。自分の中で曖昧だったものが晴れ渡った瞬間でした。
小さく薄い紙なのに、時間を越えて、しかも写真には写っていない人の眼差しを写す。写真て凄いものだったんですよね。単純な感想ですが、写真はすごい可能性を持っている媒体なんだと少し分かった気がしました。それ以来写真を撮るときは僕自身がしっかりと見ているものを残したいと思うようになりました。単に視線を送ったものを撮っても、見ている人に僕の眼差しを感じてもらえない。どうやったら写真に僕の眼差しを残せるか。これが写真を撮る上で今いちばん力を注いでいることです。技術的な事なのか精神的な事なのかまだ分からないのですが、どうやったら理想に近付けるか模索しながら撮っている状態がなんだか好きです。
ワガママな話ですが、息子が大人になって写真を見返したときに、そこに写っていない僕を感じとってくれたらいいなぁと思いながら今日も写真を撮っています。
お読みいただきありがとうございました。