わたしの師匠、福井信蔵さんに寄せて。
メーリングリストで流れてきたキラ星のような仲間たちとbAをつくったという知らせ。
20歳頃、ウェブデザインに出会いむさぼるようにいろんなサイトを見ていた。とにかくウェブデザインそのものがかっこよく思えて、憧れて仕方なかったのである。
とある日、ヨドバシカメラに行った。ふと目を書棚に落とすと「Web Design Award 1999 年鑑」(信蔵さんデザイン)が目に飛び込んできて、目にしたこともないデザインたちにめちゃくちゃ感動した。その時、何が自分にそこまで刺さったのかは正確に覚えていない。とにかく、眩しくてかっこよかったんだ。そこでウェブデザインメーリングリスト(5000人くらい)を見つけ、おそれ知らずの僕はそこで自分がつくったものを見せて酷評いただいたり、自分の意見を述べたりしていた。
そのメーリングリストに信蔵さんが中村勇吾、阿部洋介などの仲間と共に会社をつくったので社員を募集しているというメールが流れてきた。
それまでに、オンザエッヂ、IMG SRC、ロボットなどの会社に応募しては落ちていただけれども、居ても立ってもいられず応募したのである。個人サイトと母のキムチ販売サイトを見せながら面接をし、念願だったデザイナーではなかったけれども「コーダー」なら雇ってもいいよということでなんとかアルバイトとして雇ってもらえた。
すべてが新しく思え、すべてが足りなかった日々
自分なりにホームページというものをつくってきたもののbAで見た光景はすべてが異次元で、輝いていた。22歳でデザインの「デ」の字も知らなかった恥ずかしさ知らずの僕はとにかく先輩たちに何をしているのか聞き回り、自分が知りたいことを全部ぶつけるような日々だった。面倒臭い顔をされながらも、先輩たちは答えてくれるような環境だった。
とにかく必死だった。
知れば知るほど、自分の足りなさがわかってきて、とにかく勉強しなきゃならないと思わされる日々が続く。bAに入って経験したことを今振り返ると普通じゃあり得ないことの連続だった。
何かをつくっていくとき、それに対する議論をしはじめたら、どんな立場であれ、上も下も関係なくとことん議論して、全員が納得するまでやり切る。それが企画であれ、ワイヤーフレームであれ、デザイン、実装であれ、すべての場面である。ちょっとの隙があろうものであれば、容赦ないツッコミが入ってくる状況。bA全体は異様な緊張感につつまれ、常に頭をシャープにしておかざるを得ない環境だった。
ものづくりの基準、価値のある基準を持つことの責任。
信蔵さんから何か具体的にデザインについて学んだことは一度もない。
私は同僚や先輩の立ち回り、作業している感じを見て学んだのである。ちょっとの隙もないアウトプットを出していくためのテンションや粘り腰をずっと目の当たりにして、それが当たり前のように思っていた。
bAの中で一番厳しい基準を持っていたのは信蔵さんで、今考えればわかるがその基準の厳しさを肌感で感じ対峙したbAのみんなはそれを超えるべくつくっていたのである。ものづくりの先には「福井信蔵」という大きすぎる壁が存在し、その壁は確かな壁であることをみんなが認めていた。
bAのスタッフは総じて優秀で素晴らしいバッググラウンドのひとが多く、成功体験も十分なひとばかりだった。そんなスタッフたちがbAでいいものをつくるんだという共通意識を持ち束ねられたのは、何かの言葉があったわけでもルールがあったわけでもない。
bAは最初から業界の見方としては常に最高のものを求められるポジションになっていたし、bA内もそれが当たり前なような空気感としてあった。何か言語化された目標でもないのに。
自分でつくり出したプレッシャーに、常に対峙していた福井信蔵
bAのポジション、ものづくりの厳しさをつくりだしたのは信蔵さんだ。もちろん言語化もしていたが、態度や行動でつくりだしたのである。bAだけでなく私たち業界のひとびとへのみちしるべでもあり、つくる者としてのあり方の提示も、信蔵さんがしていたと確信をもって言える。
一番厳しい基準を持っていた信蔵さんは他者にそれを求め、自分にも課していた。それが一番他者を納得させる行動原理だった。0.2mm未満の誤差を許さないどころか濃淡の違いさえも許さない、一言一句の言葉にもこだわる。とにかく「完璧」を求められていたし、信蔵さんはそれを体現していた。
40歳にして会社を立ち上げた彼は、おそらくそれを自分に課していたんだと思う。47歳の会社経営17年目の僕にはわかる。その年でそれをやり切ることの困難さや厳しさを。想像を絶するプレッシャーと常に対峙しなけれならないし、それをやり切らなければ組織をひとつに束ねることはできない。
自分が言い出したからにはやりきり、スタッフがやれないなら自分でけつをふく覚悟を常に持って行動していたのである。誰よりも仕事をしていたし、誰よりも勉強もしていた。
信蔵さんの顔が見える位置に座っていた僕は、会社に泊まりまくっていたころ夜中3時に寝て、7時頃起きると眉間に皺を寄せてタバコを咥えたままデザインに没頭している信蔵さんの顔が見えた。
狂ってると思った。なぜそこまで完璧を追い求めていたのか。
今ならわかる。それを自分に課してやり通すことは、彼にとって必然であり、bAそして業界においても必然であり当然であったということを。
福井信蔵というアートディレクターが残したもの。
2024年10月19日。僕の唯一の師匠である福井信蔵さんが永眠した。
今年、2度ほどお会いして話した。自分のポートフォリオを見せながら話した。僕自身mountでやりきってる自信もあり、さすがにそろそろ褒めてくれると思ったら、手放しの褒め言葉はなかった。「お前はまだまだだな。」ってダメ出しをしばらく食らう。
あまり褒めてくれないのである。いちばん褒めて欲しいのに。
bAという、今考えれば設立されたこと自体が奇跡みたいな会社から福井信蔵というリーダーが生まれ、少なくともWeb業界には彼の背中をみて、その厳しさに触れて、育ってきた素晴らしい会社、個人がたくさんいる。そこからさらに新しい人材が輩出され、いまだによいものを追い求める文化がWeb業界にはある。
信蔵さんは自分がウェブデザインをはじめた25年前から亡くなられる瞬間までに自分に課し続けていたことを他者にも求め続け、そういう存在として認められるポジションであり続けた。その覚悟と行動が今の業界やbA出身者、そしてそこから出たものたちの「すべて」あるいは「一部分」を形成させている。
彼の理想を彼自身で果たしてきたし、その理想を追い求める瞬間に立ち会ったみんなは少なからずその気概や行動に影響され、心臓にそのDNAがぶっささり残り続けているのである。
信蔵さんに感謝を添えて。
今の僕、いやmountがあるのは、確実に信蔵さん(=bA)のおかげです。僕は会社を21年前の26歳にやめて最近まで、ずーっと信蔵さんやbAにとって恥ずかしくないものをつくらなければならない強迫観念をもって仕事をしてきました。
結果的にこだわりの塊みたいな人格が形成され、仕事を受けたからには必ずいいものにするという気概と行動力を持つことができました。それは自分にも課し、スタッフにも課し続けています。こうしてやり続けていたらmountも17年になりました。信蔵さんのDNAを受け継いでいるスタッフは素晴らしい結果を残し続けています。
mountだけでない、ウェブ業界にグラフィックデザインの考えや総合芸術的な観点を力強く取り入れた信蔵さんの功績は計り知れません。こうしてデザイン業界でデザイナー・アートディレクターとして名乗れるのも信蔵さんのおかげです。
僕はそんな信蔵さんに誇れるように、これからもよいものを目指し続け、よいアートディレクターとしての想いを貫き通しますし、たまには信蔵さんのおかげなんだよねって若い子達にも伝えようと思います。
偉大な師匠です。
心安らかに、天国では久しぶりにサーフィンでもして、おいしいビールでも飲んでくださいね。
あなたのおかげで健やかに育った、
福井信蔵の弟子
イム・ジョンホ より。