最悪の家庭環境と毒親を乗り越えた21年間の人生と現在。

久しぶりに怖い夢を見た。
最近はもうあまり見なくなっていた家族の夢。 
でもやはりこうして、忘れてはいけない過去として、私の元へと蘇ってくる。
悪夢を見る度に、私は、私自身に、
「過去から逃げては行けないよ」
と言われている気分になる。


まだ、私は、家族の暗い影の中にいる。

私の親はいわゆる毒親である。

これは私の今までの人生とその遍歴、そして現在を書いた。

※暴力的な発言や行動,自殺未遂等が含まれる文章なので苦手な人はお控えください。


 
家族構成

父,母,兄,私の4人家族。

家族プロフィール

・父
   日本人
   ギャンブル,アルコール依存性
   DV(酔っ払うと手が出る)

・母
    韓国人
   (日本人と変わらぬほどに日本語が喋れる)
    DV(カッとなると手が出る)

・兄
    6つ離れている
   ゲーム依存症

・私

【小学生】

父は重度のアルコール依存症であり、酔っ払うと兄に必要以上に絡んだ。その絡み方は異常であり、暴力にまで及んだ。恐らく日々のストレスをお酒で溶かし、兄に当たっていたのであろう。幼いながらに、兄が殴られるところを沢山見て、その度に母へとSOSを求めた。
父が兄に暴力を振るうときは必ず母が仕事で帰宅が遅くなる時だった。痺れを切らした私が、当時小学校低学年の小さな身体で止めに入ったこともある。泣き叫んで、どうか兄を殴らないでと訴えた記憶が、ずっとずっと鮮明に脳裏にこびりついている。

父は私に対しては女の子だからといって手は出さなかった。

だがそれが救いだったとは思えず、殴られる兄を横目に何も出来ず、母の帰宅を待つ事しか出来ない歯がゆさが悔しかった。

母が帰宅すると、父は何事も無かったかのように自室へと戻る。そうして何事も無く終わった時もあるが、大半は母が私に寝るように促し、そのあと父と喧嘩していた。母の怒号と「ドン!バン!」という大きな音に震えて眠りについた日もある。翌朝どきどきしながら起きると、私と一緒の部屋で寝ていた母はだいたい、よく手にたくさんの絆創膏をつけていた。

母はよく「개새끼(ケセッキ)」という言葉を発していた

 私が小学生のとき、兄は中学生だった。
 兄はどこか周りに馴染めない性格のせいか、
当時所属していた野球部の同期にいじめられていた。小学生になってから兄があまり遊んでくれなくなり、唯一の兄との絡みは大抵喧嘩だったため、どちらかというと母の口から聞く兄のエピソードの方が多かった。

思春期も相まってかなりグレていた兄は母と進路で何度も衝突していた。学歴社会である韓国出身の母は偏差値の高い学校への進学を望む一方そもそも学業に興味のない兄はその根本的な考えの相違で揉めていた。時には母から手が出ていた。

そして兄は飛び抜けて得意だった数理系を生かして、母の選択した私立の高校に進学した。

【中学生】

私は中学生になり、バスケ部に所属した。
吹奏楽部か帰宅部にしろという母の意見を押し切って、ちゃんと勉強をするという約束の元入部した。
たくさんの友達に恵まれ、それなりに恋愛し、ごくごく普通の中学生を過ごしていた。

雲行きが怪しくなったのは、中学2年生の冬頃。
当時どっぷり部活漬けになっていた私は、成績不良者だった。といっても、下の上か中ほど。一般的にみて少し悪いかなぐらいだと思っている。
そして、部活の連絡を取るためという理由で買い与えてもらったスマホを肌身離さず持ち歩き、ご飯を食べている時もLINEの返信するといったほどのスマホ依存症だった。
そのため何度も母にスマホを取り上げられそして、成績や進路について揉めていた。

プライドが高い割に実力が追いついてないタイプの人間だったため、志望校は偏差値の高いものばかりを選んで、選ぶだけ満足して勉強はしていなかった。

母と何度も衝突したが、手は出してこなかった。代わりに「あなたは一生男に股を開いて生きていくんだね」と屈辱的なことは言われた。

そして私はどう考えても自分の学力では入れもしない第1志望の高校に呆気なく落ちて、私立に進学した。

同時期、兄は大学受験だった。
兄も兄で、高校では落ちぶれていた。
大学の内部推薦があったため、枠の少ないところに推薦してどうにか進学してくれと懇願する母に対して、勉強する気がないのに大学に行く意味はないと意地を張る兄で衝突しあっていた。結局兄は大学に進学せず、かといって就職するわけでもなく、フリーターになった。


ちょうど受験期のこの頃、母の会社はリストラされた。母は1度羽を伸ばして休みたいという中、高校へ進学できないのではないかという不安感に駆られた私は「働いてください。お願いします。」と泣きながら頭を下げた。このとき父も兄もその場にいたのだが、2人はどこか他人行儀で、何もせずただそこにいただけだった。

それからも当たり前に父と母の喧嘩が落ち着く訳もなく、包丁が出てくる場面もあった。
母が包丁の柄の部分で父の頭を殴るのだ。
父は倒れ込み私にもたれかかってきた。
あの時の父の手の温かさが異様に忘れられない。
パニックになりながらも、父にハンカチを差し出して、母が居ないすきに救急車を呼ぼうと震えた声で父に伝えた。
父は「救急車を呼んだらもっと大事になってしまうよ」と苦笑いしていた。
あの日のことはずっと忘れられないし、あの日を境に包丁に対しての嫌悪感は未だ拭えず、ステンレスの包丁を使っている。また血への苦手意識が強まり、サスペンスや暴力シーン、グロテスクは見れなくなってきている。

私の周りの友人は家庭環境の良い人たちばかりだった。友人から聞く家族の話は、傍から聞けば「普通」かもしれないが、私にとっては「幸せ」なものばかりだった。父と母が喧嘩する度に、「あの子の家庭に生まれたかった」「あの子は今頃何しているかな」とばかり考えていた。

【高校生】

高校1年の冬頃、父が脳梗塞で倒れた。忘れもしない。友人とカラオケに来ていた時、私の携帯が鳴った。普段は知らない番号は放置するのにこのときなぜか電話に出た。父の会社の同僚からだった。父が倒れたから病院に来て欲しいと。少しパニックになったが、一瞬このままスルーしようかなと思ったことを覚えている。がしかし、スルーするなんて出来ずカラオケを後にし、母と兄に連絡を入れて家の最寄りの駅で落ち合った。母は怒りながら「こうなることはわかっていた。」と文句を言っていた。

父は倒れてからの発見が早かったにも関わらず、状態はかなり悪かった。普段の飲みすぎが原因だろう。

ICUのベットで横になって「申し訳ない」とへへっと笑った父に「そのまま死んでほしかった。」と母は告げた。

父が入院し、これを機に離婚することになった。離婚に伴い引越しの話が浮上した。

そしてコロナのパンデミックが起きた。

ここから家を出るまでの半年間はまさに生き地獄のような日々だった。

家を探すのも、離婚の話をしに父のいる病院に行くのも、コロナ禍のせいで全て上手くいかなかった。

母は新しく働き始めた職場も思うように働けていなかった。

母は仕事で顧客に韓国人であることへの偏見を向けられ、担当者を変えてくれと言われることもあったそうだ。

兄はフリーターで、家に引きこもり四六時中ゲームをしていた。

色々な事とストレスが重なった母は、ヒステリックを起こすようになった。

そして母は日に日に弱くなり、ご飯が食べられなくなり、眠れなくなり、ぼーっとしていることが増えた。
「死にたい」と口にすることが増えて、お風呂場で自殺しようとする母を止めたこともある。

当時の私は母の使う電車の人身事故の情報を目にした時は、もし母だったらどうしようと常に不安なっていた。

でもこれは母がもし死んだあと私の今後はどうなるのか。学校には通えるのか。「普通」を装えるのか。そんな自分の心配ばかりしていた。

私は人一倍「普通」への強い執着があった。

だんだん私も衰退していった。
外にも出れず、母のいつ起こるか分からないヒステリックに怯え、抜け出せない最悪な現状に絶望して、だんだん自殺願望が芽生えるようになった。

高校2年の二学期のテストの日。人生で初めて、駅のホームで、線路に吸い込まれそうになった。ここで飛び込んだら、もうなにも悩まなくて済むのかな。って考えたら、そこからもう「死にたい」というただその1つの感情にしか向き合えなくなった。
テストを受けていても、問題がひとつも頭に入ってこず、情報を情報として処理できず、ただ視界に入るその文字を右から左に流す作業だけをしていた。
考えることは、ここで席から立ち上がって教室の目の前にある階段から落ちて頭を打ったら死ねるかな。死ねなくても怪我をしたら、私がどれだけ追い込まれていたか母は気づいてくれるかな。そんなことばかり考えていた。

その日の帰りも、帰路の線路沿いをノロノロ歩きながら、母に最後の挨拶を残して踏切を超えて線路に出てしまおうか。そんな思いを抱えながらも、「私が死んだら母はどうなるの」という僅かな理性と「生きていたい」という生命力が私の重い足を家へと動かしてくれた。

その日の夜、死にたいと思って線路に飛び込もうとしたことを母に打ち明けた。
私のSOSに母はあまりにも衝撃的で忘れらない一言を告げてきた。衝撃的すぎるあまりどんな言葉だったのかは忘れてしまったが、ただただその衝撃だけが私の中で残り続けている。

ニュアンス的には、
「じゃあ死ねばよかったじゃん」
みたいな感じだった気がしなくもないが、
思い出そうとしても脳がその思い出す処理をする前に拒否するようで全く思い出せない。

それから月日が経ち、色々あって引越しが終わった。
中々働かなかった兄もやっと働き始めた。

地獄に一筋の光が見えた。

兄は一人暮らしを始め、私と母で新居に移り住んだ。

引っ越してからの1ヶ月は本当に幸せで、これがきっと世の言う普通で、あたりまえで、でも私にとっての幸せな家庭だった。

久しぶりに母とたくさん笑った。

もう地獄は終わったのだと思った。

しかしながら生活が急変したのは4月下旬に差し掛かった頃。離婚の話が上手くいかず父の希望で弁護士を通すことになった。

父の選択や条件の提示に気持ち的にもお金的にも納得がいかない母は段々とヒステリックになっていった。

5月のGW1日目。忘れられない日。
初めて母は私に対して手をあげた。
「今まで女の子だからと手を出してこなかったが、もうこれからは容赦しない。」
そう言われたのを覚えている。

そして、

「개새끼(ケセッキ)」

と怒鳴られた。

意味を調べた時、とてもショックだった。

そこから母は、嫌なことがある度に私を怒鳴りつけ手をあげた。

母のヒステリックは急に始まる。
昨日洗ったお弁当箱のぬめりが残っていた。
母は私の自室の扉を強く開けて、
「お前はお弁当つくる人の気持ちも考えられないのだな」
と言って私を殴った。そして、
「まずなぜ作ってもらう前提でいるんだ。」
と怒鳴り、髪を引っ張ってくる。
「今後はどうするの?」
と尋ねてくる母に、
「自分でお弁当作ります」
と言うと殴られた。
しかし、
「ちゃんとお弁当箱洗います」
といっても殴られるのだ。

つまり何を言っても殴られる。

こんな日々だった。

殴られてぶたれて、髪を引っ張られ、頭を床にぐりぐりと押さえつけられたりもした。

腕には痣ができて、髪の毛を引っ張られた部分はじんじんと痛む。ぼろぼろと抜けた自分の髪の毛をみては、屈辱的で悲しかった。

首を絞められそうになったり、はさみを向けられ、「この場で殺してやる」と言われた。

泣きじゃくる私に母は、

「絶対にお前だけ幸せになることは許さない。
一緒に地獄に落としてやる。」

と言ってきたことが、たまにフラッシュバックすることがある。この言葉が私の呪いとなり、怨念となってまとわりついているような気が、今でもする。
 


当時高校3年生。塾に通わせてもらっていたが、こんな家庭状況の中勉強なんかできるはずもなく、文字を文字として処理できない脳を一生懸命働かせ、参考書をぼっとながめていた。
当たり前に成績は落ちた。私の家庭状況を知らない担任の先生は、私の成績を心配した。それでも私は普通を装った。
SOSは出せなかった。
「先生にSOSを出したところで現状は変わるの?」と諦めていた。
この頃から人に期待をしたり、信頼することが出来なくなっていた。


 家に居場所が無かった私は、学校は唯一の居場所だった。友人が私を受け入れてくれた。好きな人だっていた。授業を受けて、ごくごく「普通」な毎日を送れる唯一の場所だった。それは私の中でささやかな生きる希望で、明日への活力だった。

家に帰りたくないから学校が終わったら塾の自習室に閉館まで閉じこもった。帰り電車は憂鬱で、気分屋の母によってドアガードがかけられてて締め出されるのではないかと怯えていた。最悪解錠できるようにリボンを常に持ち歩き、毎日ソワソワしながら生きていた。

母に暴力を振るわれ、またいつヒステリックを起こすか分からず怯えて眠りについた夜。
死んでしまいたいと思った。何も希望が見いだせなかった。自分の将来に自信が持てなかった。

でも、「死んだ先はどうなるの」
その疑問が、死ぬよりも怖かった。 
今を生きる未来は少なからず、先が見える。
天気予報で明日が晴れなことも分かるし、明日も変わらず学校に登校している未来も見える。
好きな人へ「おやすみ」と打ったメッセージに翌朝「おはよう」と返ってくる未来も見えている。

でも、死んだ先は何も見えない。

「生きていたい」
そう強く思った。

そこから死にたいような毎日を送っても、
死にたい思いが心の中を霞んでも、
私の中の底知れぬ生命力が、
私を鼓舞してくれた。

未来という不確かな存在が、
私を強くしてくれた。

そこから1度警察沙汰になり、私は警察に保護され、児童相談所に引き渡された。学校に長らく通えなくなってしまうリスクを考えると、とてもじゃないが児童相談所にお世話になることは出来なかった。
児童相談所に迎えに来てくれた母は児相の職員に対して反省している。金輪際こんなことはしないと口にしたが、家に帰ったその日に「よくも私に恥をかかせたな。」と私に手をあげた。



そこから色々なことが起こったが、状況が全く良くならならず、このままではダメだと思い、相談出来る宛を探した。

そこで見つけたのが、Colaboだった。

ただ相談出来る宛が欲しかった。
状況が変わらなくてもいいから、麻痺しそうな自分の感覚を正したかった。今自分が置かれている状況が普通ではなく異常であることを自覚していられる場所が欲しかった。

最初は相談するだけだったが、私の家の状況を把握してくれて、このままでは私の命が危ないということで、おうちを出ることを勧められた。

私が家を出たら、母親が死んでしまうかもしれないと当時はほぼ洗脳状態に近く、とてもじゃないがおうちを出るという選択肢をすぐとることが出来なかった。
なによりも家を出たらしばらく学校に通えなくなってしまう可能性を恐れた。
唯一普通を装うことが出来た学校の居場所まで奪われてしまったら、私は立ち直ることすら出来ない。

そんな私に
「何かがあって、死んでからじゃ遅いんだよ。」と半場強引に家を出る計画を進めてくれた。

これが私の人生の大きな岐路となるのだ。

おうちを出た当日、様々なハプニングが起きたが、長くなるのでまたの機会に書くことにする。振り返るとまさにミッション︰インポッシブルさながらだ。

おうちを出たのは、5月の後半。
母から手をあげられて1ヶ月もしないうちに家を出た。

5月は、人生や運命が動きそして、動かした月である。
今でも5月が来る度に、私は私の人生を振り返って、あの時、家を出る選択をしてよかった。
あの時SOSを発して良かったとそう思うのだ。

ここから私は1ヶ月間団体が提供してくれたホテルで過ごし、7月に児童養護施設に一時保護という形で身を移した。

施設への入所も母とは一悶着あり、この日を最後に母の顔は見ていない。

施設で過ごしたのは約1年半ほどで短いが、ほんとうに信じられないぐらい濃かったので、これもまた別の機会に書くことにする。

私は施設で受験を乗り越え、 大学生になった。
ちなみに尽く志望校には落ちて、どうにかすがる思いで願書を提出した今の大学に、拾ってもらった。

【大学生】

 大学1年生時は、母から病院に行くお金すらも貰えず、貯金箱からお金を少しづつ出して病院に行ったり、毎月のお小遣いを貰うにも「私の事ATMとしか思ってないんだよね。」と言われて大喧嘩していた過去の反動が大きく出たのか、奨学金やバイト代を、ずっと我慢していた趣味や洋服につぎ込んだ。

冬頃には次年度の学費を払うにはあまりにも少なすぎる貯蓄しか手元には残らず、これも色々あり、なんとか支払い、今も大学生を続けている。

ちなみにこの浪費癖は今も治っていないし、そのせいでとても苦労している。

2年次からは自立援助ホームというところに移り、1年ほどそこで生活した。

この話もまたいつか。

【現在】


大学3年の現在、給付型の奨学金を得て大学に通い、国からの支援を受けながら一人暮らしをしている。


あの日おうちを出る選択をしてくれた自分に日々感謝をしている。
きっとあのままおうちに居続けたら、私はどこかで生きることを諦めていたかもしれない。

 不確かな未来へ生きる希望を見出していた高校3年生の私を、3年後の今の私は少しだけ、救えている気がする。

タイムマシンがあるなら、今すぐボロボロだった私を抱きしめてあげたい。

ちゃんと幸せだよと胸を張って、私は過去の自分が紡いでくれた、今日と、この生をもって、明日を生きる。



今まで誰一人として共有した事の無い
7,000文字の21年間の過去を、
ここまで受け止めてくれた人がいるという事実が私を強くしてくれる。


ここまで読んでくれてありがとう。

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