「東方キャノンボール」が流行して、俺たちはゼロ年代とようやく決別する。
おはようございます。.Qです。東方Projectにハマって十年になります。この世に生を受けたのがちょうど二十年くらい前なので、人生の半分をインターネット萌えコンテンツとともに過ごしていることになります。
引き返せない感じになってきました。
今回の話はある程度東方やらニコニコ動画やらの文脈がわかる人向けです。
ゼロ年代のオタク文化
ゼロ年代のオタク文化をひとことで言えば、「インターネット」だった。にちゃんねるが設立されたのが1999年で、ニコニコ動画ができたのは2006年末。もちろん90年代頃からインターネットで交流する文化はあったのだけれど、まあ、それがオタク人口に膾炙するようになったのは2000年代からだといっていいと思う。このとき、あくまでもインターネットはアングラだった。今のように、猫も杓子も陽キャもスマホを持っていたわけじゃないのだ。
Flash黄金時代にやる夫クエストやNightmare Cityに熱狂したぼくたちであるが、それらを作ったのは、あくまでアマチュアの誰かだ。プロとして活動していた人もいただろうけれど、彼らがアマチュアとして一人のアノニマス・オタクになって活動をしていたのだ。
米津玄師もSupercellも最初はただのアマチュアクリエイターで、ZUNも竜騎士07も同人からスタートしたわけだ。
ゼロ年代オタク文化の最大手はやっぱりニコニコ動画だと思うんだけど、これは作り手と受け手が確定していない、互いの垣根の低いコミュニティだった。ボカロも東方も、絵師やPだけじゃなく、「俺たち」がボカロや東方というコミュニティを担って、ともにみんなで作っていくという文化だった。そういう意味で、これらのオタクコンテンツは、個別の作品である以前に、徹底的に「場」であり、「コミュニティ」であった。
原作のパチュリー! ――「パチュリー増えた漫画」より
原作でのキャラデザを指すときに「原作の」を付けなきゃいけないっていうのは、つまり無冠詞では原作のものとは異なった「俺たちの作った」キャラデザが出てくるってことだ。
公式よりも、二次創作によって形成されたイメージの方が影響力を持ってしまったということになる。
10年代オタク文化
東方Projectは「二次創作をフリーにすること」によって、インターネット文化の潮流に乗って一躍オタク文化を風靡した。さっきの「場」の概念だ。
この手法から学んだといわれているのが艦これ。東方は2010年頃から12年頃までコミケの最大勢力となるのだけれど、そのあとは少しずつその勢いを失ってゆき、二次創作同人誌といえば艦これ、という時代がやってくる。これが10年代オタク文化だとぼくは思っていて、つまり同人や二次創作やインターネットの力というものに企業が気づいて、それをうまく利用してオタク文化を生成しているのだと思う。艦これはDMMが作った企業のビジネスだ。東方は酒飲みガイコツが作った個人の趣味だ。ここが、同じインターネット文化のなかでの差異だと思っている。
10年代後半のムーブメント・Vtuberだって、個人がやってるインターネットアイドルを企業がやるようになった典型的な例だ。
PCがスマートフォンに、個人サイトがSNSになり、猫も杓子もインターネットに触れるようになった。大きなビジネスになりうるわけだ。
ゼロ年代は個人の趣味。
10年代は個人の趣味の手法を取り入れた企業のビジネス。
これを前提につぎの話です。
「砂の惑星」は涸れてしまったのか?
「砂の惑星」は米津玄師が2017年に発表した曲で、歌詞に「今後千年草も生えない 砂の惑星さ」とある。これはニコニコ動画あるいはボーカロイド文化を喩えて歌ったという解釈が一般的だ。でも、ニコニコ御三家と呼ばれたボーカロイド、東方、アイドルマスターも、形を変えながら、10年代を生き残ってきた。これが今回の話の主軸になる。
ゼロ年代を代表する文化たちは、すでに息絶えてしまったわけではない。
アイドルマスターは最初から商業的な側面が強いけれど、ソシャゲになることで10年代のブームも乗りこなしている。夢見りあむのブームは記憶に新しい。
ボーカロイドは昔みたいに素人が遊んで祭り上げる感じじゃなくなって、歌い手もPもプロデビューしていった。でもみんなが日々曲を上げているし、ミリオンも出てる。また、2013年以降、初音ミクの発売元が主催となって「マジカルミライ」という公式の大型ライブを毎年行っている。立体ホログラムの前で大量のオタクがペンライトを振り、大盛況だ。
さて、東方だ。東方はこれまでもかなりラディカルに同人の雰囲気を残していたが、音ゲーへのアレンジ曲収録、公式雑誌の刊行などを経て、いま、ゼロ年代から10年代へと移ろうとしている。
東方キャノンボールが流行し、俺たちはゼロ年代とようやく決別する。
まだ原作者のZUNが個人で創作するゲームが軸として存在し、二次創作作品がその周囲を大きく盛り上げるという形式は変わっていない。ゼロ年代の要素だ。しかしことし、「商業の」「しっかりとした」「ソシャゲ」が、「公式から認可された」うえでリリースされる予定で、これが大きなパラダイムシフトとなると、ぼくは思っている。それが「東方キャノンボール」。
ゲームシステムとかはどうでもいい。これに限らず、ソシャゲにおいてゲームシステムはだいたいどうでもいい。
検索をかければ、それが一般的な萌え系ソシャゲアプリと遜色ないクオリティで、しかも大きく宣伝を行っていることがわかるだろう。なんと地上波でテレビCMまで打っているというのである。
東方は、御三家の中で最も強固に「同人」であり続けようとしたコミュニティである。2008年に「夢想夏郷」という同人アニメが作られたとき、プロ声優が起用されたことなどから、頒布形式は同人であったにも関わらず物議を呼んだことがある。
プロのビジネスではなく、あくまで「俺たち」であろうとした。
声優がつくことに反対意見が大きい。声優がつくように応援するアイドルマスターとはかなり趣が違う。
クッキー☆声優のミーム汚染が深刻だが、これはこの際置いておくとして。
なぜ声優がつくことに反対するか? それは、「このキャラの声はこれ」と決まってしまうことは、「俺たち」のそれぞれのイメージを狭めてしまうからだ。
この「それぞれ」のぼんやりとした集合こそが、公式不在のゼロ年代の特徴であったのではないだろうか。どこからともなくなんとなく共通の認識があらわれてそのうえで運用されるが、それぞれによって全体の解釈は異なる。どれもが正しく、どれもが正しくない。
消費者が同時にそのコンテンツを作り上げる生産者でもある。
それは、「コメント」があることで動画が完成するニコニコ動画の形式にも端的に表れている。動画を見ている人間も、同時に、動画を作る構成要素のひとつなのだ。
はっきりと10年代の潮流に乗ったソシャゲという形で、課金制のビジネスがはじまる東方は、ことし、あらたな段階に進むのだろう。
ゼロ年代を代表するコンテンツ「東方」は、やっと同人の企業ビジネス化という10年代のオタクコンテンツのありかたに追いついたのだ。
googleのテレビCMに初音ミクが登場したのが2011年。博麗霊夢は、初音ミクを追いかけ、8年遅れでテレビの画面にやってきた。
ここからは予言になるけれど、東方キャノンボールは、何か問題でも起こさない限り、なんだかんだ流行すると思う。10年代のオタクは10年代のオタクコンテンツを求めているし、若い層ならなおさらだ。年を取ったオタクばかりより、風通しがよくなったほうが未来は明るい。
これが流行することによって、東方はゼロ年代から10年代へとアップデートされる。ボカロもアイドルマスターもとっくにゼロ年代からは抜け出しているのだ。オタクコンテンツの潮流は、東方キャノンボールの流行をもって、完全にゼロ年代のものではなくなる。
そのキャラや設定を囲みながらみんなでなんとなく作り上げていく「場」としての「俺たち」の砂場は失われ、企業によって整備された公園となる。消費者は消費者で、生産者は生産者だ。それは悪いことではないだろうが、ゼロ年代に青春を捧げたニコ厨のぼくとしてはさみしいものがあることは否めない。
ただし
いまだ公式不在の、「俺たち」でつくりあげていく「場」としてのコンテンツ/作品が、ひとつだけ残っている。
淫夢だ。
――やっぱ褒められたもんじゃねえな。
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