今の感情、「堪らない」

2024年8月上旬、現在の私の心を表す言葉

「堪らない」




あらすじ

私は天才でも秀才でも無い。東京下町の中でも擦れた地に生まれた小娘であった。しかし今、様々な機会と出逢いの連鎖のお蔭様で、私は津軽海峡の海の上にいた。そして今、とんでもなく、堪らない。そう思っている。

「堪らない」について調べてみると、ちょっと危ない状況にあると思った。
一歩誤ると駄目な人になってしまうほど、グラついた状態だと思う。

「堪らない」と思っている本人は、薬を飲んだ興奮状態のような錯覚を見ているだろう。今の私はまさにそうである。

普通の人なら、これに気がつけば「冷静さ」を取り戻したくなるだろう。
きっと私はその取り戻したくなる「冷静さ」が、普通の人と少し違うのだろうと思った。



なぜ堪らない?


釣れなかった


正直に言います。
津軽海峡にマグロを釣りに行きました。(リリース前提の釣り)
そして釣れませんでした。

大間で水揚げされるマグロは平均100キロ前後。普通は時速40キロ程度で泳ぎ、身の危険を感じたときや獲物を獲るときなどは最高時速120~130キロのスピードを出すといわれています。1994年には、440キロもの超大物が水揚げされ、大間崎にある「マグロ一本釣りモニュメント」のモデルになっています。 築地市場での高値の起点になったのは、2001年の事。初セリで1キロ10万円、一匹2020万円の値でセリ落とされたことをきっかけに高値が続き、2013年には一匹1億5540万円、2019年には3億3360万円の大間まぐろが誕生。まさに、黒いダイヤと呼ばれる所以です。

https://oma-wide.net/oomatuna/



今から約2年前の2022年。
私は東京都中目黒に暮らし、代官山にある制作会社に歩いて通勤する日々を過ごしながら、よく築地市場や豊洲市場に通っていました。
そこでする仲卸業者さんとの会話が、「生きてる」を味わっているようで、とても幸せで。
お魚を買っては家で捌き、自分専用最高定食を作ってお昼に頂きながら、デザイナーとして生活していました。

当時、私はお寿司屋(「有楽町かきだ」)さんでもバイトをしており、そこは毎月のようにマグロ(全部200kg近いサイズ)を買うほどの有名人気店でした。
お寿司屋の大将は、実際に初競りを目の当たりにしており、マグロの話を自分ごとに出来る方で、よくお店で話してくださいました。
大将がマグロの話をする時のその目は、真っ黒でどこか冷たく、遠くの話を目の前に感じさせる強い目でした。
あぁ、賄いのマグロ丼、最高だったなぁ。


というわけで、私は日頃から通っていた市場での買い物中、背中越しにブーンと運ばれる巨体マグロとは何度か出会っていたり。
また、大将との出会いもあって、大間の巨大黒鮪(以下、「あいつ」)の価値、競り、については一般の方より少しだけ知識がありました。

市場では、巨大氷になったあいつから〜生々しいあいつまで。
あいつが通ると市場の全ての視線が一瞬であいつに向くのです。
それらの視線が一度に集まった瞬間、「「(あみ?)(なわ?)(あみだ)(なわなわ)(や、つったって?)(あみだろ)(また※*※*だよ)(いくらだって)(どこだって?)」」
わんさかと、男たちのざわめきたちが聞こえるのです。

市場では、見えないパーテーションの向こうで静かに解体が行われていたり、あえて煌びやかに魅せられたあいつのビーフは、重要と供給に沿った意図があったり。
あいつは色んな姿に形を変えて、陳列に溶け込もうとしているのです。

ここに、確かな何かがあります。


切られたあいつの塊の赤。
近くで解体を始めたであろう香り。
この世界には、血の匂いが心地いいと思える領域があるんだなと、私は知ることができたのです。




見てしまった


話は戻って、なぜ堪らないのか。
だってさっき冒頭、「釣れなかった」って言ってたじゃん。

そう。
釣れなかった。
けども、「見てしまった」のです。
1匹だけ様子が違ったあいつと、あいつを追っていた方々の表情を。


津軽海峡



船は長い時間、一心に目的地を目指していました。
その間、船長は海を360°観察。
船長と一緒に、私たちは豪速球で海を直向きに走っていました。
船の中は冷淡(ここでは、冷たい炎が静かに揺らいでいた様子を意味する)で、それぞれの心を落ち着かせ、整えているような、丁寧で地に足ついた時間が流れていました。


そうこうして目的地に着き、竿を持つため外に出た、その時でした。




「グゥワン。。。
ボゥゥバンッ!ーーーーーーーーーーー。」



でかかった。

でかかった。

あいつ


あいつを見たのは一瞬で、私の右目の右側くらいしか捉えられなかった。
それでも見たのです。
そこにいた、ということ。
60m先、もう少し先、
あいつはそこにいる、ということを。
生きている。
真っ直ぐに生きている。

こちらになんて、全く眼中にない、
目の前の鰯しか追わないあいつが、確かに今を生きていたのです。



知ってしまった


津軽海峡、大間で大ボスとの戦場。
この場所に、剣を持って間もない練習モードの勇者が神の力によって突然ワープした。

そして、勇者の右目の右側細胞だけが捉えた、ボスに近いあいつの姿。

ゾッとしたわけでもない。
怖かったわけでもない。

「「いた。」」という感情を抱いたのです。
それは良し悪し/正負でもない感情でした。
一番近い言葉で表現するならば、「喜び」と「私、ここに居ていいんだ」という気持ち。



嬉しい、
届きたい。戦いたい。遂げてみたい。知りたい。試されたい。

そして、
初めて、ここに居たい、と思える場所を見つけた心地だったのです。


でも、竿も振れない、届かない。
それでも諦めたくないこれからのため、
そのために一心で竿を振り続けました。

大きな壁があって、いけないと分かっていても、
ひたすらAボタンを連打し振り続ける。
バグって壁が崩れるみたいなことは起こらない。
けど起こるかもしれないイレギュラー。
しかしイレギュラーに期待はしておらず。
ただ、イレギュラーという言葉を借りて、舞い上がらせてもらえる、
これこそが、この上ない幸せな時間。
これも大変堪らないのです。

さて、
ボス戦にワープした私は、神様にAボタンの押し方(剣の振り方)を丁寧に丁寧に丁寧に(この丁寧×3モードは絶対にイレギュラー)教えていただきまして、、、
その結果、

なんと、!
シイラを釣ることはできました。

ありがとう、シイラ。
ありがとうシイラ!

キラキラシイラ

そしてシイラは、神の手により一瞬でリリースされるのでした。
無論、この船の目的は、あいつだけなのですから。


そして、船長は私に言いました。
(船長)「シイラ連れたから大丈夫だ。マグロも釣れるよ」



、、、愛、。
(忘れないでほしいのは、私は釣り初心者なのにも関わらず、津軽海峡の大間のマグロ一本釣り船に乗っている、ということ)





感じてしまった


朝5時に出港し、6時過ぎから竿を振り続け、17時ごろ帰宅。気がつけば約12時間。
私は事前に深くイメージをしないタイプなので、特に何も身構えず、流れに身を任せていたら、

(師)「そのかーー、次のでラストーーーーーーー」の掛け声。
「えーーー」と、自然に声が出てしまった私。


一般的には長いと感じられるであろう時間が、あっという間に終わったのでした。


そして、最後まで、師が投げ込んでいる距離に近づけずに終わりました。
あと10mはありました。


でも、物理的に届くことはできる。
同じ人間ではあるので。

ただ、この事実を体感できたこと、これこそ自体が、これから生きるための財産を頂いた時間でした。

そして釣りが終わり、帰路の船中。
釣れなかったという事実。


師は、私より先に身の回りを綺麗にし始めました。
潔く、これまでの事実を受け止めるかのように。
それは高級な化粧水を肌に浸透させているかのようで、丁寧に丁寧に、淡々と片付けを行なっていました。

私はそれに手出しができませんでした。
この土俵に連れてきてもらっただけの私は、その丁寧な儀を目に焼き付けることに集中させました。
師の、その時の表情は、今でも忘れられません。

この世にはまだ、到底先に、まだ知らない感情があるのだろう。
密の詰まった高山で修得した先にしか得られない感情が、と。


とても、苦しかった。





回遊中のキーワード


釣りを終え、船から上がり、終わりのご挨拶。
船長が今晩一人の私を気にかけてくださり、一緒に食事の時間を過ごしてくださいました。

まだ揺れてる私。
まだあるさっきの竿を振り、ルアーを投げ込む感覚。
パツッテル、私の両腕。

心ぐらつく状態のまま、熱く楽しい幸せな会話と共に、美味しいご飯をいただきました。船長が頼んだカニグラタン、優しすぎて包まれて、涙出そうだったな。
そして最後に忘れちゃあいけない、北海道の岩のりおにぎり。至福だった。
贅沢に船長の時間を独り占めしてしまい、沢山お話できて、南国にいる心地でした。

それからも函館の特別な夜を沢山教えていただき、更なる幸せな出会いが重なり重なり重なり。。。(重ねていただき、)
出会った方皆様から、函館の愛を溢れるほど頂きました。涙
来年、またお会いできることが今からもう楽しみであります。


そうこうして、至高な夜を過ごした中で、
胸に刺さり、今でも体内を回遊している言葉がいくつかあるのです。

「自我」「チャンス」「詰める」
「振り切る」「信念」

回遊中キーワード


「自我」


師は言いました。

「自分のコンプレックスは、自我がないことだ」と。

これを聞いて、人は何と感じるだろう。
どう受け取るだろう。


私は、感謝の気持ちを抱きました。

「自我」、皆さんはきっと何かあるのではないでしょうか。
私はあります。結構負けず嫌いという自我が。
しかも曲がった性格の持ち主で、他人と寄り付けないところがあります。

これは、生まれた環境が要因として大きいと思うのです。
(私が生まれた環境については、書いてもいいのですが、捉えられ方によっては普通だとか、可哀想だとか思われることが癪に障るので、あまり残る形で言いたくないのですよね。あ、言いたかったことは環境は過程でなく結果論だよ、と。)
私の話は置いといて、


師とのお話です。
お酒が飲める前の歳、19歳からお世話になっている師が、出会って6年目くらいになって、久しぶりにゆっくりお酒を飲めたこの席で、自身のコンプレックスを打ち明けたのです。

改めて考えてしまいます。
自我とは、なんなんでしょうね。
いるのか、いらないのか。

きっと、それさえもどうでもいいことなのだろう。
と、私は感じました。

ただ、凄いことだと思ったのは、「自分に自我がない」と言われて、「確かにそうですね。」と綺麗に納得できる人はこの世に何人いるのだろう。
と。
もはやいるのだろうか。
私は、いないと思うのです。

自我とは、有無も形もきっと人それぞれで、自分でなんとなくわかっていれば、人に迷惑をかけないようにしていれば、それでいいのだと思うのです。
それぞれ、共に、良き道を生きれたらいいと思うのです。



「チャンス」

[英語]
機会、好機、チャンス、(…が)機会、(可能な)見込み、成算、見込み、(…が)見込み、(可能性の強い)見込み、形勢 物事をするのによい機会好機

[日本語]
何かを行うのによい機会のこと。「好機」とも言われる。
ただし英語では「偶然性」の意味で、好機は opportunity である。

「チャンスを掴む!」
とは、よく聞く言葉。

チャンスとは目に見えないものだと思っていましたが
私は初めてチャンスを目の当たりにすることができたのです。

チャンスとは、意外と起こることがあったり、
全く起こらないこともあったり。

餌を撒けば、必然的にチャンスを生めるけど、それは継続しなかったり。
チャンスとは、とても動的なものであり、確実に存在するものであるのだろう。そう思います。

さらに、チャンスとは、大きさ(ランク/クラス)があります。
その大きなチャンスを掴むには、そのチャンスに応じた、相応の自分ランク、クラスでなければ得る権利もないのです。

チャンスとは、そんな構図であると感じました。

そもそも、そこに届いていないと掴めない。
そこに届く体力、道具、能力が備わっていないと、届かない。
きっと何事にもこの原理が働いているのだと思うのです。



「詰める」

これは、船長が教えてくれた言葉でした。
上手になるために必要な言葉。

「上手い人は、必要な力をそれぞれレベル上げて、それらをぐーっと詰めていく感じ。」
「あとは、集中力。」

人の能力とは、いくつかありますがどれも経験からしか得られないものだと考えます。
例えば、この5つ。

・人間力(趣味)
・思考力(経験の数、質)
・対応力(経験の数と質の割合)
・体力(精神的、身体的)
・道具(調査力、コミュニケーション力、金銭)

これらは、生まれた環境に依存する人間力に伴って、基本的な成長曲線が引かれると思います。
例えば、東大に入ると多くの卒業生は、大手コンサル会社、国家公務員などがロールモデルとして目に入ることができます。
一方、偏差値約40の一般大学だと、学部によって異なりますが、ベンチャー企業営業から、先生、行政、警察、不動産営業など、行ける先の未来は比較的透ししやすいのではないでしょうか。

生まれた場所、育った施設、取り組んだコト、その時の自分の立場・役割によって、自分の成長曲線は変わります。
成長したいと思う人は、常にこの自分が置かれている環境と、得られる成長曲線を想像してみると、どんな人たちと日々過ごすことができるかがわかると思います。

その思考を止めず、得たい経験、得たい能力をそれぞれ伸ばす。
そうすることで、自分の知らない理想を描くことができるようになり、自分が幸せと思える選択が生まれてくるのだと思います。

あとは、得たいチャンスと出会うことができれば
あとは集中。それぞれ伸ばした能力を集結させ、力、にするイメージなのだと思います。

このマグロ一本釣りでいえば、
マグロが現れた瞬間(チャンス)から、それを掴むまで、それぞれの能力を言語化している時間なんてなく、一気にそれぞれの能力が全部求められるのです。

それらをまとめ、一本の竿、一本の糸で、戦うのです。

きっと、それが自分との勝負で
念願の、あいつとの勝負なのです。


「振り切る」

船に乗っている間、私はずっと竿を振っていました。

しかし、自分の意思で「振れた」と思える時は一度もありませんでした。
振らせて貰っている、振らされている。
竿を、私が振っている、という感覚がなかったのです。

なんというか、
もっとこの竿を振れるのがわかるのです。
振った時の音や、ルアーが飛んだ時の距離はもちろんわかりやすいですが、なんというか、うまく力が伝わっていないのです。

これは、口だけ夢物語して、行動を起こさない過去の私と似ていると感じました。
言霊は存在すると思う派ですが、どれだけ口にしても、行動が伴っていなければ、世の中に大きなインパクトを残すこともできず、経験値もあまり得ることができません。

船の上の私は、持つものは持ったけど、まだどう行動したらいいかさえわかっていないような状況だったと思います。

今は、強く思う。
ああ、振りたい。

思いっきり、振りたい。
遠くに、飛ばしたい。
戦いたい。

そのために、決めるのです。
決めたのです。
もう少し、狙いに到達できるように、どんどん振っていこうと。

振って、振って、振って、
本番のために練習していこうと。


「信念」

これは函館のとあるバーであった、出会いのお話。

お店の方は気さくで、人もしっかり見ていて。
その時集まった人々が作る雰囲気さえもわかったようにサービスしてくださる、プロのサービスマンでした。

そもそも、サービスとは、感性が伴っていなければプロになることができないと思うのです。きっとこれは、それこそ生まれた環境でどうやりくりしていたか、自我がどれほどあるか、によると思うのです。

北海道を巡る中で、色々なサービスマンと出会いましたが、
ひとめみて、人を判断してしまう人。
お金をたくさん払ったら、目の色、態度が変わる人。
誰にでも優しい人。
自分の理想を追い求める人。
勝手に察して、勝手に動く人。

いろんな種類の人がいると思いますが、
どれだけ相手のために、相手に合って尽くせるか。
このようなサービスマンとしてのプロフェッショナルには、働く場所へのリスペクト、愛がなければ成れないのではないかと感じます。


そんなこんなで、函館で出会ったプロのサービスマン店主さんが、私に「何か感じる。絶対合わせたい人がいる。」と言ってくださいました。
そんなことを言ってくださる方なんて、そうそういないです。
嬉しかったです。

なぜそんなに言ってくださるのか? と感じつつも、
そんなことより、そう言ってくださることが嬉しすぎて。
それをつまみにお酒をひとくち。またひとくち。。
幸せな時間でした。

店主の目は本気で、その場で連絡先を交換。
後日、感謝の気持ちをご連絡したところ、
店主さんは、私に「初めて会ったのに、ス強い信念があると感じた」と言ってくださいました。

その時、初めて「信念」という言葉を意識しました。

確かに、私は人より正義感が強いと感じていました。
その正義感は、かつて、自分よがりのものだったものだと思います。
いつしかそれが、信念として根付いてくれたのかもしれません。

私の信念とは。

「環境に甘えず、全ての事象を愛し、前進すること」かもしれません。

何かを切実に、誠実に大切に愛している人が、好きなのです。
愛とは、甘えでは無いと思っています。

その環境に縋り、寄りかかっている人は、自然に起きている事象に対して謝ってほしいとさえ思います。
誰が作ったか、どう作られたか、全てには事象が存在するのです。

その事象がどうだったか、については良し悪しを判断することはなく、その事象と自分との出会いを愛せる人、はとても魅力的だと思うのです。

私は、「守りたい」と思う事象を
愛していきたいのです。



ありがとう、あの歌

函館、最後のバーではカラオケができました。
お客様がそれぞれ楽しみ、好きな曲を歌う中

私が選んだのは「喝采」でした。

いつものように 幕が開き
恋の歌 うたう私に
届いた報せは 黒いふちどりがありました
あれは三年前 止めるアナタ駅に残し
動き始めた汽車に ひとり飛びのった
ひなびた町の昼下がり
教会の前にたたずみ
喪服の私は 祈る言葉さえ失くしてた

つたがからまる 白いカベ
ほそいかげ ながくおとして
ひとりの私は こぼす涙さえ忘れてた
暗い待合室 話すひともないわたしの
耳に私のうたが 通りすぎてゆく

いつものように 幕が開く
降りそそぐ ライトのその中
それでも わたしは
今日も 恋の歌うたってる

「喝采」歌:ちあきなおみ、作詞:吉田旺、作曲:中村泰士

まさに、出会いと別れ、事実との向き合いを歌った女性の曲です。

あー、気持ちよかったなぁ、



今日、函館、北海道を巡っている私は、約4年前に大学を卒業。
とにかく、一心不乱でよくわからない上を目指していました。
何者かになりたい、そう思って行動さえしていれば、何者かになれる、そう思っていました。
実に「東京」に甘えていたな、そう思います。

人は、いろいろあるけれど、
この曲は、一人でいることが好きになれる、愛せる曲です。


そして、船長が歌ってくださった曲があります。涙

唄うことは 難しいことじゃない
ただ声に身をまかせ 頭の中をからっぽにするだけ

本当のことは歌の中にある
いつもなら照れくさくて 言えないことも

・・・

唄うことは 難しいことじゃない
その胸の目隠しをそっと外せばいい

情熱の彼方に何がある? 気になるから行こうよ
窓の外には北風が 腕組みするビルの影に吹くけれど

ぼくらを乗せて メロディは続く…

「歌うたいのバラッド」斉藤和義

「「「「最高」」」」


マグロ一本釣りを愛するマニアを数々見てきた船長が、「歌うことは簡単だ」と。歌ってくださったのです。
とても愛が伝わり、、涙がちょちょちょぎれました。

最後に私は、出会いと感謝の気持ちを込めて。
さよならの向こう側、を。♩


改めて、
今回お会いできた皆様、本当に本当にありがとうございました。
また来年。
何卒よろしくお願いいたします。



それでは聞いてください、「決心」

人生で初めてマグロと出会い、
色々感じ、旅をしました。

結果、今私が考えていることがあります。

それは


私は、
マグロをリリースします。

しっかりと、今禁止されていることは業界のために守りたい。

それでも、マグロに付き合ってほしいと。


マグロの漁獲については、賛否両論あり
一般人で初心者が意見を言えるようなものではありません。
しかし、マグロが好きだなって、感じてしまったからには、この時間を愛したい。

そのためにできることは
しっかりと現状を見つめ続けることだと。
そう思うのです。


そして、さいごに、もう一つ、思うこと。

最近、不思議やな、と思うことがあるのです。
それは考え、というか立場?にあるのですが

最近の私は、どれだけ褒められても、疑い。
その「褒め」、が私の成長に直結しなくなったのです。

つまり、褒められると逆に怪しむようになっているのです。本気で。

「素晴らしい!」と言われると
「ああ、この方は一旦区切りをつけたいんだな」と頭の中で変換してしまいます。

もう、単純な言霊を表層で受け入れられなくなったのです。

この私の発言自体が、良い/悪い、とどう捉えられても、どう受け止められてもいいと思ったので書いてしまいました。


それさえも、重要じゃなくなっているのです。


とっても、ふしぎだなー。
というお話でした。


実はこの執筆、オチをどうしたらいいもか、と
ずーっと考えていました。

でも、オチれない。
それが今の私なんだなと、
2週間くらいかかって、今そう思っています。



オチれない、今の私に、こんなにも長い文章お付き合いいただき、本当にありがとうございます。
流石にここまで読んでくださる方なんて、愛しかないなと…
コメント、DMで
何でもいいので、是非ご連絡いただきたいです。
お話ししたいです.…

実は、このマグロ釣りを機に、とある一人旅を長い間していました。
次からのnoteはこれよりもっと短編編で、すぱすぱ書いていきたいと思います!

今後ともよろしくお願いします!!



改めて、本当にありがとうございました。
今日も、明日も、良い日となりますように!


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