君と私

説明するような文章を書くのをやめたい。あいつみたいな訳のわからない文章を書きたい。みんな、なにあいつ?って言ってるけれど私すごく好きなんだ。羨ましい。あの時、自転車ですれ違った時、変な顔してごめん。真冬に坊主のタンクトップ姿は流石に変だったからあんな顔しちゃったけど、でも君のそういうところが、周りから見たらチグハグに見えるけれど君の中では全てが噛み合っているところが、本当に好きだ。こういうのも全部直接言えば良かったよね。今度会ったらちゃんと言うからね。そういえば、住む場所がなくなったと相談した時に「そんなの近所の人に頼めばすぐやろ」っていう無責任なアドバイスくれたのもありがとう。君が自分で改造した家の家賃は一年間で二万円だったっけ。君は本当にいいなあ。心底羨ましいや。

自分から生まれたものたちを恥ずかしいだとか失敗だとか思うのやめたいよ。恥ずかしいって思う方が恥ずかしいんだよきっと。自意識過剰だよ!!私から生み出されるものたちは、私自身なのだから私と同じぐらい大切に、子猫を扱うように丁寧に扱ってあげないといけないはずなのに。何故だろう。私から生み出されたものは私自身ではないというか、「そういう世界にいた時の私」みたいな感覚がある。文章を書いたり動画を作ったりラジオを撮ったり絵を描いたり、全部私がやった私のことなのに違う人がやったことのように思ってしまう。だから、何か表現や創造をしているときに「その世界」に入りすぎると、そこから出るのがすごく怖くなる。いっそのこと、この世界ごと「その世界」にしてしまえれば、この世界と「その世界」の境目をなくしてしまえば良いのだけれど、やっぱり「その世界」とこの世界は一緒にできないの。この世界にいる時に「戻ってきた」という感覚があるし、やっぱり「その世界」はわざわざ入っているものなのかな。「その世界」は私じゃないのかな。うーん。本当は「その世界」がメインで、この世界がサブだったらいいのに、なんで私はそれが逆なんだろう。うーん。

君はさ、「その世界」とかこの世界とか、そんなのないんでしょ?だってさ、君と一緒に遊んだとき、本当に今泉力哉の映画の中みたいだった。人の家の田んぼに名前を付けるゲームが盛り上がった後、「余韻がすごいね」って言ったら、「じゃあその余韻探しにいく?」って言って、来た道を2人で戻って一緒に余韻を探しに行ったよね。バイバイする時には「今日の思い出を卵とじにするか、醤油で煮込むかどっちがいい?」って言ってくれたっけ。いやあ、本当に君いいなあ。日本帰ったらまた遊ぼうね。私のこと覚えてるか知らんけど、絶対に遊ぶから待っててね。

それじゃあね、私は君に会うまでに「私のくせに」っていう考え方をやめるね。「くせに」って言い方本当に嫌なんだよ。だけど自分によく言ってしまうの。私は私を何だと思ってるのかしら。自分で勝手に自分の価値を過小評価するのは可笑しい話だよね。やっぱりご飯の量と睡眠と夢と自分に対する評価は大きければ大きいほどいいんだよね。そうだったね、忘れていたよ。私さ、私のこと本当に面白いやつだと思っているんだけれど、それと同じぐらい本当に嫌なやつだと思っているんだ。だからさ、頭の中では「面白い!嫌い!面白い!嫌い!」が同時に喋ってしまって、どっちの味方をしたらいいのか分からなくなって、少しパニックにになっちゃうんだよね。うーん。「面白い!」と言ってる奴がもっと強気で、濃いめに来てくれたら助かるのだけど、、、負けるな!!!、、、、うーん。他の人から褒められたらもっと強気で来れるのかしら、とか考えてみたけれどやっぱり私は他の人からの評価に関係なく、どんな場所にいても自分で自分の価値を分かっていたい。自分の力で自分を面白いって褒めてあげないといけないね。全部自分のことなんだから。

君とかあの子とか、心底羨ましい人たちや大好きな人たちのことは大好きなままで、そこに私も並べるように、私が私を羨ましいと大好きだと思えるようになるまでどうにかまた頑張ってみるね。みんな会いたいな。話したいな。夢の中にまた出てきてね。じゃあ寝るね。

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