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オルテガ・イ・ガセット『個人と社会』より「無知の人」

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回はオルテガ・イ・ガセット『個人と社会』からの引用とそれについての個人的な考えをお話ししたいと思います。記事中には私個人の偏見や認識の誤りも含まれていると思います。その点のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

序文

自分は何も知らないという自覚を意味する「無知の知」は古代ギリシアのソクラテスによって語られたことですが、高度に発達した現代の文明の下でも、相変わらず、人間は古代と変わらず無知であると言えるのではないかと思われます。

古代も現代も、こういった背景にありながら、人は知性人であるということを殊更強調し、高みに立って人を蔑みます。おそらくどんなに無知の知という言葉を座右の銘としていたとしても、人間のこのような性は完全には抑えきれないもののような気がします。それが恥ずかしいことなのか、そうでないのかすらよくわかりません。

引用文

人間はぜひとも知っておかなければならないことを知ったためしはないのである。したがって知性人という言葉を、人間はいくつかのことそれもきわめてわずかなことだけを知っており、残りを知らない、そしてこの残りのものが膨大な数にのぼると解釈するならば、人間を無知の人と名づけるほうがより適切なことと思われる。もし今われわれがそうたいして先を急いでいないとするなら、たしかにわれわれは、プラトンが人間をまさに無知という特徴で定義したことが適切な判断であったことがわかるだろう。事実、無知こそ人間の特権である

オルテガ・イ・ガセット『個人と社会』p36

感想

日常生活においても、あるいはネット空間においても、人は知性をひけらかし、同時に他者の無知を罵倒するという光景は非常に頻繁に目にしますし、当然、私自身もこのありふれた光景の当事者であったことなど数えきれないほどありますし、今後も私はこの光景の当事者であり続けることでしょう。

罵倒する側であれ、罵倒される側であれ、そのたびごとにしばしば、ソクラテスの無知の知という概念が頭に浮かび、混乱することを告白せざるをえません。

こういった光景をみっともないと思いながらも、そこから自由になれない、それが言う側であれ、言われる側であれ、人間の業にはいずれにせよ、従わざるをえない自分を何度も何度も目撃します。

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最後に

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