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オイラはオイラだよ!ジェンダーアイデンティティの葛藤について

最近、思うように自分の感情や感覚を言語化できない。いまのわたしの葛藤を記しておきたいと思いつつ、筆が進まない。
noteを書く行為は、ある種私の感情を一区切りさせることでもあると思っていて、最近は同じもやもやが続いているからか、それが難しいね
でも書くことを試みます。


オリンピックが開幕して(超強引だったね)、開幕までの1ヶ月で、膿のように色々な問題が噴出した。
「多様性」を謳ったスローガンと、「東京2020」の文字だけが空虚に目立っている印象。
「多様性」と調和しようというスローガンを掲げたことによって、日本が多様性を受け入れられていないことが浮き彫りにされるの、なんかもうお見事って感じ。
オリンピックに関して言えば、別にスポーツに感動するなとか応援するなとか言ってるんじゃないんだけど、「感動」というものによって全てに○が付けられていくんじゃないかという不安。だけどあんまり大声で言うのもな〜みたいな空気にも辟易している。
オリンピック開催のために踏まれ続けている人がいることを忘れてはいけないよね。

五輪の「多様性と調和」のスローガンの空虚さをより露わにしたのが、「LGBT新法」の件だったように思う。
あの自民党の醜悪な態度・対応の一連の流れには、なんかもう開いた口が塞がらないって感じだった。
差別発言への謝罪もなくて、そりゃ差別発言している人たち自ら「差別の禁止」なんて項目盛り込めないよな。
でもだからって、言ったって変わらないって諦めたらこの地獄が続くから、声を上げていかなきゃ行けない。声を上げ続けることがいかに労力が必要なのかということを政府は分かっているのだろうか.......(わかってないからあの態度なんだけどね)


さて。
地獄のような問題が浮上し続ける毎日の中で、個人的にずっともやもやしていることがある。私のジェンダーアイデンティティとセクシュアリティについて。
何度も何度も文字にしようとして、これまで出来なかった。とても個人的なことだけど、とても社会的なことでもあるから。

宇多田ヒカルがノンバイナリーだって表明した。Twitterでは様々な意見が飛び交っていて、「賛否両論」、どっちもたくさん目にした。そもそも他人のジェンダーアイデンティティについて「賛否両論」とかないと思っているから、「」付きで書いている。
他人がとやかく言ったって、結局のところ感じてきた感覚は本人にしか分からない。彼女の発言の裏にどれほどの葛藤があったのかやそれまでの経緯や決意なんて、私たちは想像しかできないのだから。
だけど、彼女の発言が話題になった時、簡単にノンバイナリー を名乗ることを危惧する声や、ファッションとして記号となってしまうことを恐れる声も目にした。それらを見た時、私は何も言えなくなってしまった。


その理由を説明させてほしい。
私はこの1年くらいで、これまでの自分とは180度違う考え方をするようになった。考え方が変わったというよりは、「これまで何も考えていなかった自分が、考えて主体を持つようになった」という方が正しいかもしれない。
それまでは世の中の意見が自分の意見だったし、自分のジェンダーや恋愛についても、疑問に思わず深く考えず、みんながやるようにやってきた。シスヘテロ女性であることに違和感を持ったことは無かったのだ。
だけど、いざ自分で考えられるようになると、今までのやり方ではうまく行かなくなってしまった。
「恋愛」も「女」であるということも、私がなりたい私になるためには、煩わしいものに変化してしまった。違和感を感じはじめたのだ。だけどここ最近の私は、その感覚はありつつも、シス特権を享受している。

宇多田ヒカルのカミングアウトの一連の盛り上がりを見た時、「シス特権を享受している私は何も言えないのではないか。」「私がノンバイナリーだと言えるんだろうか。」「「恋愛」を散々してきたくせに、今更アロマンスだと言えるのだろうか。」色々なもやもやが渦になって私を取り囲んだ。


確かに私は、女子トイレに入ることに違和感は無いし、自分の身体に違和感は無い。
だけど勝手に見た目から「女」だと判断されて振る舞いを求められるのも嫌だし、かといって男になりたいわけでもない。
私はレースや繊細な布が好きで、好んで50年代や60年代のヴィンテージのドレスを着る。ふりふりのレースがついた裾を揺らめかせて歩くのが好き。
ずっと昔からヴィンテージドレスが好きで集めていて、今でもそれは変わらない。
だけど、ヴィンテージドレスを纏っていると必ず、「女」だと判断されてしまう。女の子「だから」女のコらしいレースが好きなんだね、可愛らしいね、と言われたこともある。
ランジェリーについてもそう。フリフリで透けたレースを好んで着る「から」、女なんだと判断されてしまう。(1番ムカつくのは私に「女」の記号を貼り付けて異性愛の土俵にあげるやつ。何回思い返しても煮え切らない思いがある。)

なんでなんだろう。
私は私の身体や自認の性が何であろうと、レースが好きだし美しいランジェリーが好きだ。
私が好きなものたちが、勝手に世の中の記号に当てはめられているが故に、結果的に私も「女」という記号としてみられてしまう。こういう経験がここ最近何度もあって、何度も頭を打たれたように苦しかった。
何度も続くと不思議なもので、「私は「女」として見られたいからレースやドレスが好きなのかもしれない」と思うようになってしまったくらい。毎月毎月おかしい程収集していたドレスやランジェリーも、ある時買えなくなったりして。
まあそれは何度か考えた結果、「いやちげえわ、ふざけんな!おいらは美しいものが好きなだけ。」そう胸を張って言えるようになったんだけどね。
だって私はきっと、自分の身体が男だろうが女だろうが、絶対同じものを選ぶ自信があるもん。
だからなのか、男性の身体を持ちながらも、ファッションとして「女性」としての記号を持つ衣服を選んでいる人に魅力を感じる。(女性の身体をもちながらも〜の逆も然り。でもレディースファッションって幅が広いから、あんまり越境出来ないのがつまんない。)世の中の記号をものともしない姿勢に、羨ましさもある。私も男性の身体だったら、このレースやドレスを純粋に好きだと表明できるだろうか?
(こういう部分で中国のアイドルにハマっている、また今度それについても書きたいな)



少し話が逸れてしまった。
宇多田ヒカルの件やLGBT新法の件などでLGBTQというワードが注目された時、私は当事者なのか、そうでは無いのか、どちらの気分でいたらいいのかわかんなくなってしまったのだ。
シス特権を享受しているまま、誰かの足を踏んだことがあるのに、当事者面をしても良いのだろうか。
ずっとそう思ってモヤモヤとしてきた。言葉で「私はノンバイナリーです。」と言うことが出来なかった。
だけど、私のこの違和感や泣けるほどの苦痛は、無いものには出来ないし嘘ではない。
この葛藤を、無いものにはしたくない。
そう思っていたところで、こんなツイートを見つけた。


このツイートは続くから読んで見てほしいのだけど、とりわけ下記の箇所にとても励まされた。

クィアコミュニティはそういう人らに対して門番を設けるのではなく、歓迎するものであって欲しい。


もちろん、ファッション化してしまうことへの懸念もあるし、同じ枠に入っていてもそこに格差があることを無視してはいけない。
私がどんな立場でどんな性別を名乗ろうが、私は他人の足を踏んではいけないし踏んでいないかを常に確認しなくてはいけない。
そういうことも勿論認識した上で、私は私のこの葛藤を無いものにはしないでいたいと思った。

こういう葛藤を文字におこして残しておくことで、私は今の私を肯定したいと思う。

なんだかとても長くなってしまった。
とても言葉足らずで、誤解をうむこともあるかもしれない。だけど誤解を恐れて何も言えないままでいるより、半歩でも進んでみようと思うのだ。
これまでの無自覚な自分や特権を持ったままでいる私が、これを書くことによって相殺されるわけではない。
シス特権を享受している私が与えてしまう加害性も考慮しなくてはならない。
それは私が一生向き合っていかなければならないことであるし、途中で放棄する気もない。
だけど、今の私の感覚と葛藤を、私が認めてあげたいのだ。



追記
どうでもいいけど、最近家での一人称が「おいら」「オレ」になってきた。ふざけてる時は「おいらドン」、相手は「おまえドン」。すごいしっくり来てる。
毎日オイラって言ってても表面では出ないのって、なんかすごいなって思ってる。いつか職場とかで「おいら」とか出ちゃったら面白いなとか思ってる。

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