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クロソフスキー『生きている貨幣』の読書メモ(5-22)
◆フーコーからクロソフスキーへの手紙(5-6)
・基本的に絶賛のトーン
どことなくファンレターみたいで面白い手紙。フーコーの話になってしまうけど、せっかくだからここについてもメモを箇条書きしておく。
・ブランショ・バタイユ・ニーチェという系列に置かれる『生きている貨幣』
クロソフスキーがこういった固有名の並びに置かれることそのものには何も不思議なことはなさそうだけど、なにげにニーチェが『善悪の彼岸』で代表されていたり、このラインが「ひそか」なものと表現されているのはちょっと気になる。
・「私たちの歴史においておそらく何世紀もまえから、私たちを支配し、私たちを構成してきた」ところの「欲望と価値とシミュラクル」の「三角形」
1972年に発表されたドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』をフーコーが激賞したのも同様のテーマがあるからだろう。とりあえずキーワードとして覚えておこう。ちなみに、フーコー自身はこういう用語で何かを論じることはなかった。
・「「フロイトとマルクス」と言ってきた者たち、いまでも言っている者たち」への揶揄
『ミシェル・フーコー思考集成』の第1巻に収められた「年譜」には、『アンチ・オイディプス』が発表された1972年にフーコーとドゥルーズが当時フランスで流行していた「フロイト-マルクス主義 」を始末しようと悪巧みをしていた様子が記されている。
冗談っぽくフーコーはドゥルーズに語っている。「フロイト-マルクス主義を片付けないとね。」 ドゥルーズの答えはこうだ。「こちらはフロイトを受けもつから、そちらにはマルクスをお任せできるかな?」
忘れられがちだけど重要なのは、ここでの攻略対象が、フロイト主義freudismeそのものやマルクス主義marxismeそのものではなく、この2つがごた混ぜになった「フロイト-マルクス主義freudo-marxisme」であること。あくまでもこの混成体をターゲットとしつつ、より対フロイト主義戦線をドゥルーズが、より対マルクス主義戦線をフーコーが、それぞれ担当するという戦術立案がドゥルーズから提出されていたというわけだ。ただしこのやりとりは「冗談っぽくen plaisantant」なされていたものであるということもあって、真に受けすぎても仕方ないのだろうけど。それにしても、具体的に「フロイト-マルクス主義」というのは何のことだろうか
・サドへの評価、クロソフスキーへの評価
ときどき指摘されることだけど、フーコーは60年代と70年代でサド評価を一変させている。高評価から低評価へ。そうすると、その中間に位置する1970年のこの手紙でサドとセットになる仕方で評価されているクロソフスキーもまたフーコーのにおいて低評価を下されることになるのだろうか? 思えばフーコーは70年代に入ってからクロソフスキーに言及することが少なくなっていく。クロソフスキーと同じ系列で把握されていたブランショやバタイユも同様に言及されなくなっていく(絶えず言及され続けるニーチェはさておき)。やはり低評価に? それにしても、この手紙の末尾の「ですから限りなくあなたの友である私をお信じください」という文言が気になる。なんとなくわたしには、この文言に「これから私はあなたをあたかも裏切るかのような論陣を張るけれど」という前置きがあるような気がしてならない。
◆『生きている貨幣』の概要(11)
・このページについて
段落の字下げがなされていない文が並んでいるページがある(この記事のヘッダー画像を参照)。これは本文とは別に同書の基本的な論点を述べたもの(段落ごとに字下げがなされる本文は13ページから始まる)。これは想像だけど、同書のあまりの奇書っぷりに困ってしまった編集者がクロソフスキーに概要紹介を依頼したのではないか。わざわざフーコーが同書を大絶賛している私信を冒頭にもってきている(手紙の文面を印刷してまで!)ことにも、どうにか同書が読むに値する書物であるということをアピールしようと苦心する編集者の姿が透けて見える気がする。
・同書の背景
冒頭で「前世紀半ば」以来の「情動生命vie affective」対「産業文明civilisation industrielle」という対立構図が示されている。ここで念頭に置かれているのは広い意味での「疎外論」のことだろう。〈われわれは、資本主義的な体制に組み込まれることで、その内面に至るまで本来のあり方を喪失させられてしまっている〉といったような。これがクロソフスキーの議論の背景をなすということだろう。
・同書の基本発想
〈産業文明が情動生命の荒廃をもたらすという広義の疎外論においては、産業社会の生産手段に「脱道徳化をもたらす影響力emprise démoralisante」が備わっているということが前提されている〉と指摘するところからクロソフスキーの議論は始まる。産業社会の生産手段に「注目に値する道徳的力能 puissance morale considérable」がビルトインされていて、そこにおいて産業と情動が関わりあっている、というわけだ。ここでクロソフスキーは、〈情動生命と産業社会がまったく別の領域をなしていて、前者が後者からの侵攻を受けて疎外状態に陥っている〉というコントラストのはっきりとした見立てを取るのではなく、〈産業そのものが情動と生産という局面において通底している〉という錯綜した見立てを取っている。「欲望的生産」ということを考えたドゥルーズ+ガタリとよく似た見立てだと言えるかもしれない。これはクロソフスキーの発想の基本をなすものだとおもわれるので覚えておきたい。
ところで、いま‹ moral ›系の語彙をわざわざ「道徳的」と訳しなおしたが、兼子正勝による「精神的」という訳が間違っているとはおもわない。フランス語の‹ moral ›系の語彙は、ドイツ語の„Moral“系の語彙と同じく「道徳」の意味のほかに「士気」の意味もあり、この後者の意味において‹ esprit ›や„Geist“に通じるところがないでもなく、じっさい‹ science morale ›と„Geisteswissenschaft“はおおむね相等しいとみなされてともに「精神科学」と訳されるだろう。
それでもあえて「道徳」と訳しなおしてみたことにはひとつの狙いがある。クロソフスキーは、遅くとも1956年に発表したニーチェ論ですでに、19世紀から20世紀にかけての産業社会の発達と連動して「脱道徳化démoralisation」が進展しそれに伴って「非道徳主義immoralisme」が隆盛がしてきたのだと指摘している。道徳ではなく非道徳がその産業社会との結託をめぐって批判的に検討されるというわけだ。じっさいそのニーチェ論においてクロソフスキーは、アンドレ・ジッドを念頭におきつつ、「インモラリスト・ニーチェ」という描像を「産業的な標準化standardisation industrielle」の産物であると言い切っている。〈サドやニーチェのラディカルな解釈者として知られるクロソフスキーには退屈な「道徳」なんて吹き飛ばすようなところがあるだろう〉と期待する向きがあるとおもうし、わたしもそういう期待をもっているのだけど、残念ながらそれは非道徳主義を掲げて脱道徳化をもたらすというアプローチによってはなされない。〈道徳か非道徳か〉は問題にならず、むしろ道徳にしても非道徳にしてもそれが罷り通るようになるときの奇妙な錯綜が焦点化される。このことは銘記しておいてほしい。この文脈を想起するためというのが、‹ moral ›系の語彙を「道徳」と訳しなおしたことの狙いである。
・同書の問題設定
産業と情動は「生産」がもつ「道徳的な力能」において通底しているのだとして、では、この力能はどこからくるのか。これがクロソフスキーが同書で扱う基本的な問題をなす。
この問題にアプローチするためにクロソフスキーが着目するのは、「オブジェクトを作為する行為そのものacte même de fabriquer des objets」に「固有の合目的性」が備わっているかどうかが怪しいという事実である。より具体的には、生存のためという点ではっきりと目的をもって作為されるようにおもわれる「道具ustensile」とその点でははっきりとした目的をもたずに作為されるようにおもわれる「模像simulacre」という2つのオブジェクトの異同が問題にされる。とりわけ道具と模像が「使用usage」される場面が問題になる。このページの最終段落が先取り的に示唆しているのは、〈道具と模像は、その使用の場面では、どちらも模像的であるのでなければならない〉ということ。オブジェクトの使用という場面において道具も模像も模像的であるということは、オブジェクトの使用というのは根本的に無用さと不可分であるということだろう。そうであるとすれば、根本的に無用な仕方で使用されるオブジェクトを作為する「生産」の営みに「固有の合目的性」があるのかはたしかにどうか怪しくなりそうだ。
とりあえず問題の所在が見えてきたようにおもわれる。さしあたり気になるのは、道具の使用と模像の使用の異同の問題。道具が使用されるときその道具は模像的でなければならないというのはどういうことなのか。そして次に気になるのは、とにかく無用に使用されるオブジェクトを作為することそのものの「固有の合目的性」の問題。生産に「固有の合目的性」があるのかどうか怪しいのだとして、生産はどのようなものとして解されることになるのか。そして最後に気になるのは、とにかく「固有の合目的性」が怪しまれる「生産」における情動と産業の通底性の問題。産業と情動を結びつける生産の「道徳的力能」がどのようなものとして解され、産業と情動の通底はどのように解されることになるのか。
◆「使用」と「慣習」の結びつき(13)
・「使用財」をめぐる使用と慣習の結びつき
本文は「使用財bien d'usage」の話から始まっている。この言い方に何か民法とか経済学とかの文脈での固有の意味合いがあるのかどうかわたしにはわからないが、さしあたり「消費財bien de consommation」のようなものだと解しておくことにする。概念的には、「身体」について言われているあれこれから察するに、あるオブジェクト(あるいは「財bien」)が他のオブジェクトとの関係におかれているときにそのオブジェクトが「使用財」と呼ばれることになるようだ。
ところでクロソフスキーは‹ usage ›という語彙が「使用」だけでなく「慣習」の意味をもっていることを重視して「使用財」と「慣習」が「根源的に不可分」であるとまで述べている。財において使用と慣習がどういう関係をなすのかというと、〈財が一定の仕方で使用されることで慣習は維持され、そのように維持された慣習のもとで財の使用仕方が一定になる〉というような循環的な関係をなす。さらに注意した方がいい要素がある。財が使用によって「意味sens」をもつようになるとか慣習によって「意義signification」をあたえられるとか言われることだ。財の何たるかは使用=慣習の地平において規定される。これをふまえるとこうなる:財において使用と慣習が循環的に働きあっており、そのことによって財に意味なり意義なりが付与される。この段落で抑えるべきはこの点。
・クロソフスキー的な疎外論の組成
いまのことをクロソフスキーはある人物に固有の身体というオブジェクトないし財を例にとって敷衍している。具体的には上の図式に当てはめながらテクストを読んでもらえばわかるとおもう。ここで注目したいのは、クロソフスキーの「疎外論」のちょっと興味深い複雑さ。「ちょっと」でしかなくだからどうということでもないわりに長くなるので読み飛ばしてくれても構わない。
まずはあるひとに「固有の身体」からスタートするわけだが、これが「他のひとに固有の身体」との配置関係に置かれると「使用財」になるのだという。「商品化」をおもわせるこの言い方から、〈身体がその固有性を奪われて疎外される〉というような話をしていると解することは許されるだろう。
ちょっと面白くなってくるのは次。クロソフスキーはこの「使用財」としての身体が「譲渡不可能か譲渡可能かinaliénable ou aliénable」は「慣習がそれに与える意義によって変わってくる」のだという。たしかに、刑罰や労働契約が問題になるときには「身体」の使用権の譲渡可能性がフォーカスされるし、生命権が問題になるときには「身体」の使用権の譲渡不可能性がフォーカスされるわけで、なぜこのような二枚舌めいた特徴づけというか意味づけというかがまかりとおるのかといえば〈それは慣習のなせるわざだ〉と言いたくなる。そういうなんということのないことを言っているだけのような気もするが、ここで用いられる‹ aliénation ›系の語彙には注意を要するかもしれない。‹ aliénation ›には、財産の「譲渡」や「放棄」の意味のほかに、まさにいま話題にしている「疎外」の意味もあったりする(法律行政の文脈だと「精神疾患の発症」のような意味もある)。この語に注意すると、譲渡の可否の慣習による決定をめぐるクロソフスキーの議論は〈身体を含む使用財を疎外的な仕方で用いてよいかどうかが慣習によって決まる〉という話になっていると解することができる。
ちょっと興味深いのは「疎外」が2つの局面で起きていることだ。ひとつは固有のものが対他関係におかれて固有性なき使用財となる局面、もうひとつはその使用財が慣習によって譲渡可能になる局面。使用財となっているという点で疎外されていても、慣習上疎外的に使用されることになっているとはかぎらないということになる。妙に落ち着いた議論になっている。だから何というわけではない(いまのところは)。
◆「使用=慣習」から「利用」へ、そして「利用」の観点の支配(13-16)
・「使用=慣習」から「利用」へ
前の段落では〈財において使用と慣習が循環的に働きあっており、そのことによって財に意味なり意義なりが付与される〉ということが言われていたわけだが、この段落でクロソフスキーは「作為する行為 acte de fabriquer」の複雑化(産業社会が発展してくるというようなことだろう)にともなって財の意味なり意義なりの付与仕方が変わるのだということを述べている。財を作為する活動が複雑で多様なものになっていくにしたがって、財は、どのように「使用usage」できるかという観点から意味づけられるのではなく、さらなる財を作り出すことにどれだけ「利用utilisation」できるかという「効率性efficacité」の観点から意味づけられるようになるというわけだ。
ここでは財を単に用いることに関わる「使用」と用いられる財を作ることに関わる「利用」が区別されている。この区別をもっておくと、〈慣習上「有効」とされる「使用法」をしていても、「利用」せずに「使用」している時点で「非生産的」だ〉といったことを言うことができる。常識的と言えばそれまでの区別だけれど、たとえばバタイユの「有用性」概念は「使用」と「利用」が無差別的になっていることと比べると、クロソフスキーはしっかりしているねとおもわされる。これは「金持ち」と「資本家」の概念上の区別に関わるだろう。「金持ち」は金を「使用」してあれこれ買えるようなひとのことを言うわけだが、それだけだと財を目減りさせてしまうだろう。「金持ち」が持っている金を「利用」して財をさらに増やせるかどうかはわからない。高給取りだったプロスポーツ選手が引退後に貧窮してしまうようなケースを考えてみるとよい。これに対し「資本家」はまさに金や財を「利用」して財をどんどん増やそうとする者である。なんというかふつうに重要な区別だとおもう。ただし、「使用」と「利用」が区別されるにしてもどういう区別なのかがわからない。両者はまったく別水準をなすのかもしれない(「生産」領域と「再生産」領域の区別のように)し、「利用」は特殊な「使用」だと言えるのかもしれない(その逆は考えにくいが、効率性の低い利用を使用とみなすというのもありなのかもしれない)。
(なお、経済プロセスに含まれる「蕩尽」や「供犠」のモーメントを観測しようとするバタイユの「一般経済学」は、「資本家」的な「利用」において現象する「金持ち」的な「使用」を見ようとするものであるだろうから、その意味で「使用」のレベルと「利用」のレベルをあえて無差別化しようとするものだと言えるだろう。したがって、この無差別性は曖昧さではない。ただ、わたしの読むかぎりバタイユは、〈いったん区別しておいてからその無差別性を指摘していく〉という読みやすい論述になっていない傾向があって、ややクリアさに欠けるところがあり……)
・「利用」の観点の支配
さらにクロソフスキーは、産業社会が成立するとともに、〈さらなる生産に寄与するか〉という「効率性efficacité」の観点が支配的になるということを述べている。この観点からすれば、財を「使用」してしまうことは「利用」の機会の喪失として「非生産的improductif」で「不毛stérile」な「享楽jouissance」にすぎないと断じられることになる(「財」ということで身体のことが考えられていることによって、この議論にエロティシズム的な含意が付与されていることには注意しておきたい)。「産業の時代」の「道具の作為」は「不毛な使用の世界」と「作為の効率性の世界」を決定的に分裂させる。ここで言う「道具」は「使用」できるという以上に「利用」できるもののことだろう。
重要になりそうなのは、「使用」はそれ自体としては「生産的」でも「非生産的」でもないということ。「使用」が「生産的」とか「非生産的」とか言われる(というか「非生産的だ」と断じられる)のは、あくまでも「利用」を中心とする「効率性」の観点からである。いまクロソフスキーがしている話は〈生産体制が複雑化する以前には非生産的な使用が許されていた〉という話として理解できなくもなさそうだが、そうした理解は「利用」の観点が支配的となった産業社会の回顧的な見方によるもの以外ではない。正確な記述(?)を心がけるなら〈生産体制が複雑化する以前には生産的とも非生産的ともみなされない使用が許されていた〉といった具合になるはずだ。作為された財の「使用」から作為することそのものへの財の「利用」へと重心が動いたことのポイントは、〈非生産的なあり方から生産的なあり方へ〉というものではなく、〈生産的/非生産的が問われないあり方から生産的/非生産的が問われるあり方へ〉というものである。
・〈使用と利用の無区別〉から〈使用と利用の区別〉へ
おそらくいまのこととの関わりで、最初提示した「使用」から「利用」へという理解そのものも訂正しておいた方がいい。〈生産的/非生産的が問われないあり方から生産的/非生産的が問われるあり方へ〉というのが正しいのなら、〈使用と利用を区別しないあり方から使用と利用を区別するあり方へ〉という言い方をするのが正確であるはずだ。じっさいクロソフスキーは産業社会の成立とともに不毛な使用の世界と効率的な利用の世界が決定的に分たれるということを述べている。〈無差別から区別へ〉とか〈同じから違うへ〉とかの定式化ができそうなクロソフスキーの発想法は不毛な模像と効率的な道具の(無)区別などさまざまなところで反復されるようにおもわれるので注意されたい。
◆「道具」を作為することそのものに関わる「不毛さ」(16-18)
・道具の生産そのものをめぐる「不毛」とそれとの戦いとしての「浪費的実験」
前の段落では財の使用よりも財を利用することによる生産が支配的になって財の使用が不毛と断じられるようになるということが話題になっていたわけだが、この段落で問題になるのは、道具という「利用」すべきものの生産そのものが抱えることになる「間欠的な不毛stérilité intermittente」。クロソフスキーによると、「作為の加速したリズムは、たえず、その産物に非効率的なものが入り込まないよう予防しなければならない」のだが、加速した生産体制が非効率的なものに抗するには「浪費gaspillage」に訴えるほかないのだという。どういうことか。非効率的なものを祓いのけて効率的なものを作るためには「実験するéxpérimenter」ことが必要になる。「実験éxperimentation」は、どこまでも予期される不毛を祓いのけるために繰り返さざるをえないものなのだが、その実験は物的であったり人的であったりする資源をどうしようもなく犠牲にする「浪費的なgaspilleuse」ものでもある。要するに「効率性の前提条件」として「浪費的実験」が絶えず行われなければならないというわけだ。
・想像的な不毛をめぐる実在的な浪費としての実験
少しずつクロソフスキーらしい議論になってきているようにおもわれる。ここで問題になっている「間欠的な不毛」というのは、複雑化することで加速した産業的生産がその産物に混入するのを「予防しprévenir」なければならないと想定している何かなのだから、それは何らかの実在的なものであるというよりは想像的なものだろう。それに対し、どこまでも想定されてしまう不毛を祓いのけようとして行われる「浪費」としての「実験」はといえば、これは実在的であるだろう。想像された不毛を祓うために現実におこなわれる浪費、これが効率性の前提をなす。有用性の世界の基盤には無用な行いがあるというバタイユ的な発想がとられていると言えるだろうが、同じようなことがこうした架空の不毛と実際の浪費の悪循環として論じられるというのはいかにもクロソフスキーらしいと言えるだろう。ただしこの場合の「浪費」は、効率的な道具の生産を目的とした実験のいわば「必要経費」である以上、それ自体で完全な無駄とは言いがたいのかもしれないけど。
◆「幻影」をめぐる「浪費的実験」の表現としての「模像」の作為(18)
・「幻影」をめぐる「浪費的実験」による「模像」の生産
前の段落で効率性の前提条件をなすものと目されていた「浪費的実験」が「幻影phantasme」をめぐって行われる場合どうなるのか、というのがこの段落の話題。ここで「幻影」は「享楽的な感情émotion voluptueuseをもたらす」ものとして「その使用の不変性が常に想定されている財」であるとともに「浪費的実験の領域そのもの」をなすと言われる。ぱぱっと結論を述べるとその場合、「浪費的実験は模像の効率的な作為によって表現される」ことになるのだという。要するにここでの問題は、実験が生産的な「道具」を作るためではなく非生産的な「模像」を作るためになされるケースだ。
・「尻の美しいウェヌス」によるケーススタディ
それにしても抽象的で難しい段落ではないか。次の段落で「尻の美しいウェヌスla Venus callipyge」が出てくるのでこれを事例として考えてみる。「尻の美しいウェヌス」はナポリ国立考古学博物館に収蔵されている彫刻作品。紀元前3世紀頃のギリシアの青銅製のアプロディーテー像を模して紀元前1世紀頃にローマで作られた大理石製の彫刻作品で(ギリシア神話のアプロディーテーとローマ神話のウェヌスは基本的に同一視される)、さらに復元が重ねられて現在の姿に至るのだそう。複製や復元のプロセスでさまざまな伝承に基づいたデザイン変更が加えられているとのこと。この彫刻作品そのものを模した彫刻作品も多いのだという。わかりやすく「シミュラクル」的なオブジェだと言えるだろう。これをふまえて上の抽象的な議論に当てはめてみるなら、失われたアプロディーテーの美しい「幻影」が「享楽的な感情」をもたらすくらいしか使用法をもたないというのは一応わからなくもないし、そんなアプロディーテーの「幻影」をめぐる「浪費的実験」がウェヌスという「模像」の作為に結実するというのもわからなくもない。そして「模像の効率的な作為」というのはとりもなおさずアプロディーテーを模したウェヌス像がどんどんと作られることだろう。道具のような「利用」価値をもたない不毛な模像がしかし効率的に生み出されていく。この場合の「浪費的実験」は、どれだけ生産を効率化しようともその産物が不毛な模像であるからには、それ自体で無駄であると言うべきかもしれない。
具体例からだとわからないのことが2つある。まず「幻影」が「浪費的実験の領域そのもの」と言われること。これは、もしかすると、「浪費的実験」がそもそも〈予期される不毛〉という想像的なものをめぐるものであったことから来ているのかもしれない。同じことだが、「浪費的実験」が〈不毛の余地のないまったくの効率性〉という理想=幻影を目指すものであるというところから来ているのかもしれない。もうひとつは「幻影phantasme」をめぐる「浪費的実験」が「模像simulacreの効率的な作為によって表現される」と言われること。「表現」というのがわからない。これは、もしかすると、〈「浪費的実験」そのものは徹頭徹尾「幻影的」であって公になっておらず、その産物が生み出されていてはじめてそうした実験があったのだということが公になる〉といったようなことなのかもしれない。このあたりはまだよくわからないがとりあえずこのぐらいの整理だけつけておいて先に進めよう。
・裏表をなす『ニーチェと悪循環』と『生きている貨幣』?
じっさい、『ニーチェと悪循環』においてクロソフスキーは、「実験éxpérimentation」ならぬ「経験éxpérience」という語彙をもちいて、〈ニーチェは自分の「経験」に関わる「ファンタスム」を「シミュラクル」によって「表現」したのだ〉ということを語っている。その意味はさておき、クロソフスキー的な用語法からすれば、「幻影」をめぐる実験が「模像」の作為によって「表現」されるという上の言い方は可能なのだろう。
ところでこうしたアナロジーが成り立つのだとすれば、産業社会の生産活動はニーチェの表現活動とアナロジカルな関係にあるということになるだろう。じっさい『ニーチェと悪循環』第6章「選別的教義としての永遠回帰」の末尾(ちくま学芸文庫版p.336)においてクロソフスキーは〈ニーチェが特異な個人として生きようとしていた「超人surhumain」が、「産業主義industrialisme」によって「超畜群surgrégarité」という集団的なものとしてカリカチュア的に実現されている〉というようなことを述べている。1969年に発表された同書では一度しか出てこない産業社会の「超畜群」なるものが1970年に発表された『生きている貨幣』で詳論されているという読み方は許されるのだろうか。)
◆「作為」のジレンマ?:「弾道爆弾」と「美しい尻のヴィーナス」(18-20)
・「作為」のジレンマ:作られるものの典型は模像か道具か
この段落では財を作為することをめぐるあるジレンマが話題になっている。どういうジレンマなのかというと、財の作為における「浪費的実験」は「無際限に構築し破壊し再構築すること」との関係において主たるものなのか従たるものなのかというもの。さしあたりは、浪費が主になるのはどちらかと言えば「模像」の作為であり、生産が主になるのはどちらかと言えば「道具」の作為であるだろうということで、ここでの問題は「財を作為すること」の典型は「模像」の作為か「道具」の作為かということになる。
・「道具」対「模像」?
このジレンマをクロソフスキーは道具と模像の競合関係のようなものとして論じているのだが、ここには興味深い非対称性がある。ここは兼子正勝による翻訳だと見えづらいところなので原文を添えて試訳を提示したうえで精読してみたい。
Comment le monde ustensilaire évitera-t-il de tomber dans la simulation d'un phantasme? Fabriquer un objet ustensilaire (p. ex. la bombe orbitale) ne diffère de l'acte de fabriquer un simulacre (p. ex. la Vénus callipyge) que par le prétexte inversé de l'expérimentation gaspilleuse : à savoir que la bombe orbitale n'a d'autre utilité que d'angoisser le monde des usages stériles. Toutefois la Vénus callipyge n'est que la face rieuse de la bombe, qui tourne l'utilité en dérision.
「いかにして道具的世界は幻影の模像化へと転落してしまうことを避けられるだろうか。道具的オブジェクト(たとえば弾道爆弾)の作為が模像を作為する行為と異なっているのは、たんに浪費的生産の反転した口実によってのことでしかない。すなわち、弾道爆弾の有用性は、不毛な使用の世界を不安がらせるという点にしかないのである。にもかかわらず、〈尻の美しいウェヌス〉は、爆弾の陽気な顔立ちにほかならないのであって、有用性というものをお笑い種にしてしまうのである。」
注目すべきは、道具と模像の競合関係はあくまでも〈道具による模像に抗する闘い〉という様相を呈していて、模像の方では道具と競い合うという向きがなさそうであるということだ。先に述べた興味深い非対称性というのはこれのこと。道具は模像へと「転落してしまうことを避け」ようとしていたり模像の世界を「不安がらせ」ようとしていたりと模像とは対立する〈別なもの〉であろうとするのに対し、模像はそもそも道具がとる異なる「顔立ち」以外ではないと言われていることからして道具と〈同じもの〉になっていてそもそも道具と対立的にならない。模像が「有用性というものをお笑い種にしてしまう」のは、道具との正面切った闘いの一手としてであるというよりは、この対立そのものを無化してしまうような身振りとしてであると解されるべきだろう。この非対称性のせいで、〈道具と模像が対立している〉というよりは、〈道具と模像を対立させる立場と道具と模像を対立させない立場がすれ違っている〉という具合になっている。先ほど述べた〈無差別と区別〉ないし〈違うと同じ〉の論法になっていることが察せられるだろう。
「浪費的実験」に与えられる「口実prétexte」が「反転したinversé」ものであると言われることによって、道具の生産をめぐる浪費的実験の口実と模像の生産をめぐる浪費的実験の口実が対立関係にあるというふうに捉えそうになるのだが、そうは読めないとおもう。注意すべきは「口実」が単数形になっていること。対立する2つの「口実」があるのならそれは複数形で表現されるだろう。そもそも「模像」の生産は不毛な使用のためにするのだからそのための実験が浪費的であることに特段の「口実」が必要になることはないだろうし、じっさい「口実」を説明しているコロンのあとには「道具」の話しかなされていない。道具が模像への転落を避けようとして浪費的実験にあてがった「口実」としてのなけなしの有用性を、模像は何の口実もなしに一笑に付してしまう。この落差を表現するのが「にもかかわらずToutefois」という接続詞だろう。
・「弾道爆弾」によるケーススタディ
それにしても道具が浪費的実験にあてがった「口実」が「反転したinversé」ものであるというのはどういうことだろうか。何と何の「反転」なのだろうか。ふたつのことが考えられるようにおもわれる。
ひとつには〈実験は浪費的〉なんだけど〈その産物が不毛な使用の世界を不安がらせる点で有用〉だという反転性。まずはシンプルにこういうことがあるだろう。
やや穿ちすぎかもしれないが、もうひとつ反転性が考えられる。順を追って述べてみる。注目したいのは「弾道爆弾」を「尻の美しいウェヌス」から区別する唯一の口実となる「有用性」は不毛な使用の世界を爆撃することにあるのではなく不毛な使用の世界を不安がらせることにあるという点。「弾道爆弾」を実際に使用するというよりは威嚇のために使用せずにおいておくということだろう(「模像」との闘いは「使用」との闘いなのだから理にかなったことである)。では使用されない「弾道爆弾」がどうして「不安」の種になるのかといえば、それがある種のゲーム理論風のシミュレーション空間としての安全保障関係に置き入れられることによってであろう。これが「弾道爆弾」のなけなしの有用性でありそれをめぐる「実験」がもたらす「浪費」の「口実」なのだとしたら、それが「反転した口実」と言われることには次のような意味があると考えられないだろうか。すなわち、〈「弾道爆弾」の有用性は浪費的実験が幻影の模像化simulationに陥らないための「口実」〉なんだけど〈まさにその有用性は安全保障論的なシミュレーション空間においてしか発揮されない〉という反転性。次の段落で「道具はそれがシミュラクルであるときにはじめて道具になる」ということが言われるのはそういうことだろう。
結局のところ道具が自らをめぐる浪費的実験に与える口実は、ひとつめの意味では的確に道具を模像から遠ざけているが、もうひとつの意味ではむしろ道具を模像へと近づけてしまうものになっている。「弾道爆弾」は、〈実際に使用されずにシミュレーション空間に置き入れられることによってこそ有用になる〉という逆説性からしても〈それをめぐるシミュレーションがある意味で現実以上に切迫したものになってしまう〉という過剰さからしても、ある意味で「尻の美しいウェヌス」以上に倒錯的なオブジェクトであると言ってもいいのではないか。
ちなみに、わたしは軍事に明るくないので「弾道爆弾bombe orbitale」がどういうものなのかはよくわからない。冷戦下の1960年代にソヴィエト連邦は「部分軌道爆撃システムsystème de bombardement orbital fractionné」なるものを研究・開発していたようであるが、これと何か関係があるのだろうか(『生きている貨幣』は1970年に出版されている)。このシステムは、人工衛星の軌道に乗せて爆撃を行うものだそうで、低軌道を進んでいく「大陸間弾道ミサイルmissile balistique intercontinental」よりも捕捉や迎撃が難しいのだという。1968年に運用が開始されたこのシステムは、しかしながら、威力や命中精度の点で問題を抱えていたこともあって短期間で廃止されたとのこと。なんだったのかという感じだが、いかにも冷戦期的なエピソードである。
◆「道具」による「模像」に抗する闘い(20)
・「模像」に抗う「道具」
この段落でも前の段落と同様のジレンマがやはり「道具」の側の問題として扱われている。「道具が道具であるのは、それが模像である場合にかぎられる」という不条理が道具にとっての懸念となる。
クロソフスキーによると「道具」からすればこの不条理とは「逆のことle contraire」を証明しなければならないのだという。この「逆のこと」というのがどういうことなのかわからなかった。道具と模像の関係を逆転させた「模像が模像であるのは、それが道具である場合にかぎられる」ということを証明するのだろうか。それとも帰結節と条件節を逆転させた「道具が模像であるのは、それが道具である場合にかぎられる」ということとを証明するのだろうか。それともたんに条件関係そのものを否定して「道具はそれが模像でなくとも道具だ」ということを証明するのだろうか。
・「道具」が犯すリスク
わからないまま進めると、とにかく「道具が道具であるのは、それが模像である場合にかぎられる」という不条理とは「逆のこと」を証明しようとするなら、道具は「自己自身の破壊に関する効率的な記号をもって不毛な使用の世界への優位を保つことになるのを覚悟の上で quitte à se maintenir dessus le monde des usages stériles par le signe efficace de sa propre destruction.」やらねばならないのだという。
どうもこれは道具にとって覚悟を要するリスクなのだそうだが、何を言っているのかわからない。①道具そのものの「自己破壊」とそこからくる「効率的なサイン」とは何なのか。②それによって「不毛な使用の世界への優位を保つ」ことにどんなリスクがあるのか。自信がないのだが、次のように推測してみる。①については「浪費的実験」とそれよって成り立つ「効率性」のことなのだろう。すると②についてはこうなる。道具は効率性という観点を支配的なものとすることによって模像に対する優位性を得ることになったわけだが、この効率性は実験を前提条件とするのだった。ところでこの実験は浪費的なものであり、そのことが道具の存在理由にとって自己論駁的になる。これが不毛な使用の世界への優位を保つために道具が犯すことになるリスクだ。
それにしても「記号signe」というのはどういうことなのだろうか。保留にしておいた「表現」の問題がここに関わっているのかもしれない。p.18では「浪費的実験」は道具なり模像なりの効率的な作為によって「表現されるs'exrimer」ということが言われていたのだが、この〈浪費的実験が財の作為によって表現される〉という広い意味で記号論的と呼べそうな関係がいまの「記号signe」という語彙の使用に含意されているという読み方である。同じ箇所では「浪費的実験」が「幻影」をその領域とするということが言われていたことや、いま読んでいる箇所で道具がほとんど模像に近似してしまっていることに注意すると、「幻影」の記号としての「模像」ということが言われていると解することができるだろう。先ほど紹介した『ニーチェと悪循環』での用語法と整合的になっている。
◆「作為」を貫く「パトロジックな有用性」とその隠蔽(20-22)
・不思議な昔話:「作為」を貫く「パトロジックな有用性」
この段落は「昔話」に典型的な直接法単純過去を用いた語り方から始まる。またしても難しいので原文と試訳を出してみる。
Si les dieux furent les premiers promoteurs de la fabrication d'objets pour que le fabricant justifiât devant eux sa subsistance propre, dès le moment où la fabrication des idoles fut jugée inutile commença la longue ignorance du caractère proprement mercantile de la vie pulsionnelle au sein des individus, soit la méconnaissance des travestissements de l'utilité pathologique.
「神々がオブジェクトを作為させた最初のプロモーターであり、そのおかげで作為者はこの神々の前で自らの生存を正当化できていたのだが、偶像の作為が無用であると断じられて以来、諸個人の只中での衝動的生命がもつ固有に商業的な性格をめぐる長きにわたる無視が始まった。すなわちパトロジックな有用性がさまざまに変装するということへの誤認が始まったのだ。」
どうなっているのだろうか。とりあえずわかるのはこの昔話がある種の原初状態とか初期設定とかに関わるものになっている点だ。ではどういう初期設定になっているのかというと、〈オブジェクトの作為は神々にプロモートされたものでありつつも作為者自信の生存の正当性にも関わっていた〉ということが言われている。ある種の偶像の制作を作為行為の初期設定とされているわけだ。ここで注意したいのは、ここには神々との対峙という幻想的な性格と自己の生存の正当化しようとする功利的な性格が共存している点である。偶像の制作というクロソフスキー的な経済論の初期設定をなすのは、幻想的で無益な営みというよりは、神々にプロモートされるという点では幻想的なでありつつも自己の生存の正当化につながる点では有益であるような営みである。この幻想性と功利性の共存が「衝動的生命がもつ固有に商業的な性格」とか「パトロジックな有用性」とかの言い方に結びついている。幻想的かつ功利的な衝動的生命のさまざまなる変装がオブジェクトのさまざまなる作為だというわけだ。
・「パトロジックな有用性」を隠蔽する近代芸術と近代経済学
こうした初期設定から産業社会が発達した状況を見るならば、「衝動的生命」において幻想性と功利性が無区別に同じものであるということの無視が罷り通っていることになるだろう。幻想的なものと功利的なものが差別化され違うものとされることになる。ではこのようなものの見方は何に支えられて罷り通っているのか。ここでクロソフスキーが注目するのは近代的な芸術と経済学である。こういう議論になっている。近代芸術はその自立性や純粋性(「芸術のための芸術」のようなものだろう)を主張するために創造行為の源泉としてのパトスの無償性を主張することになったのだという。これが幻想性からの功利性の排除をなす。近代経済学はまるでパトスによるなどとおもえない合理的なものとして産業社会の体制を論じた。これが功利性からの幻想性の排除をなす。このようにして芸術と経済学をある種のイデオロギーとすることで、「衝動的生命がもつ固有に商業的な性格」とか「パトロジックな有用性」とかに対する「無視」が許されるようになったというわけだ。
・クロソフスキー的疎外論の奇妙さ
以上の議論は〈原初状態が産業社会の発達にともないイデオロギー的に歪曲してしまった〉という広い意味で疎外論的なものになっていると言ってよいだろう。だが、ふつう(?)なら〈原初的には功利性などなく純粋に衝動的だったものづくりが、産業社会において功利性へと絡め取られるようになってしまった〉というような話になりそうなのだが、クロソフスキーがしている話は〈原初的には衝動的であることと功利的であることは一体をなしていたのに、産業社会においてこれらははっきりと区別されるようになってしまった〉というものである。やはり〈同じから違うへ〉論法だ。この奇妙な疎外論は、「幻影」や「衝動」の原理的な考察を含みつつ、「純粋芸術」批判の独特なヴァージョンとして芸術と経済の関係の再考を迫るところがあり、いろいろと展開のしがいがあるようにおもわれる。