花の命は結構長い
私が小さかった頃、テレビで「花の命は結構長い〜」という音楽とともに、日本生命のCMがよく流れていた。かなり昔のCMだが、鮮明に覚えていて、今でも時々口ずさんでしまう。
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昔から、花が好きだった。
若い頃、仕事で身体も心もどうしようもなくなった時、初めて花を買って、当時住んでいたワンルームに飾った。眺めながら毎日のように思っていたことは
「この花が綺麗だと思えるうちは、私はまだ大丈夫」
だった。
それって本当に花が好きなの?と問われれば、答えに窮したかもしれない。でもあの頃、何かにつけて、自分がまだ「大丈夫」なのか確認せずにはいられなかった。お笑い番組を見て笑うことができたり、朝まで一度も目覚めずに眠ることができたり、そういう日常の些細なことに無理やりにでも「大丈夫」を見出さなければ、私はたちまち、自分がとっくに限界を超えていることを悟って、身動きがとれなくなっていたと思う。
その頃から比べて、現在私を取り巻く状況は、ずいぶん柔らかく穏やかなものとなった。それでも花を飾る習慣は消えなくて、私は純粋に花の美しさを楽しめる人間になれたのだろうかと思ってはみるが、未だに花を凝視してしまう時があって、そんな時は、自分でもハッとして、急いで目を逸らすのだ。それは花を愛でる視線ではなく、自分の「大丈夫」の欠片を、花の中に探して彷徨う視線だから。
娘には、純粋に花を花として慈しめる女の子になって欲しいと思っていた。だから、花の名前をたくさん教えたし、花の手入れも一緒にした。娘の好きな色の花を見つけると、娘のお気に入りの花瓶に飾って、彼女の帰りを待った。
そんな矢先。
「お母さん、今日のお花、ちょっと枯れてきてるよ」
リビングの一番目立つ場所に飾られた花を見て、娘が言った。それは、その日の昼ごろ、夕飯の買い物に出かけた際に、スーパーの片隅にあるフラワーショップで私が買った花束だった。
ギクリとした。同時に、切なさが込み上げてきた。
「うん。でもね、お母さん、この花が好きだと思ったの」
ゆっくり、なるべくはっきりと言った。リビングに飾られた、その花たちに聞かせるかのように。
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その日の昼に話は戻る。
心に色々なモヤモヤと心配事が押し寄せて、渋滞していた。一つ一つは些細なことなのに、重なるととたんに抱えきれなくなる。なんでこういうのって同時にくるかなぁ?心配やモヤモヤがお互いを呼び合って、仲良く手を繋いでやってきたみたい。引き離して一つずつ対処しようと試みても、複雑に絡み合っていたりなんかして、私は仕方なく、それらの塊を引きずるようにして、最寄りのスーパーへ向かった。
上の空のまま買い物をし、ちぐはぐな食材たちの会計を済ませた後、いつも立ち寄るフラワーショップに足が吸い寄せられた。
あの子が好きな、ピンクの花はあるかな。
季節の花束に目を走らせていたら、いつもなら見ないエリアに気を取られた。
ピカピカに咲き乱れる花たちが置かれた棚とは別に、床の上で、飾り気もへったくれもないバケツに入れられ、「お値打ち品」と題された花たち。ご丁寧に、「まだ数日は楽しめます」と手書きのメモまで添えられている。その中に、ピンクのガーベラがあった。
開いて少し日がたっているのか、5本あるガーベラは、花弁の色が色褪せはじめていた。添えられたかすみ草も、花が開ききっており、なんだか申し訳なさそうにガーベラに寄り添っている。
私は迷わずそれを手に取り、レジへ向かった。
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花は私にとっては結構高い代物で、豪華な花束を毎週のように買えるわけではない。どうせ買うなら、少しでも長く楽しみたい!という欲張り心で、なるべく若いものを選んでしまう。まだ花が咲きたてのもの。いや、なんなら花というより、まだ蕾みたいなの。
そんな私が、なぜ「お値打ち品」と題されたガーベラの花束を買ったのか、自分でもその時の気持ちはうまく説明できない。買ったというより、連れて帰った、という感じがしっくり来る。一寸の迷いもなく、咲いてから少しだけ時を経たガーベラとかすみ草を、私は選び、連れて帰った。
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抱え込んだ心配事の中でも大きなウエイトを占めていたのは、娘に関することだった。
細かく書くと、とんでもない文字数になりそうなのでざっくり書くと、私は娘の叱り方が分からなくなっていた。
先日娘をキツく叱って、泣かせてしまった。
悪いことをしたらきちんと叱るというのは決めていることなので、それは良い。問題は、私が娘を叱ったという事実の中に、余計な意図や言葉は含まれていなかったか、ということ。
娘は、繊細さと鈍感さを発揮する場面が私とはことごとく反対だ。私からすると信じられないような小さな出来事に心を痛めたかと思えば、こちらが「もうちょっと気にしなさいな」と思うようなことには全く気を取られない。それは彼女の個性であり、私と娘、どちらの性質が良い悪いという話ではない。私ができることといえば、できる限り彼女の世界に寄り添って、なるべく気持ちを尊重してやることくらい。
でも、私は欲張りで心配性で親バカな母親なので、そんな彼女を見て、やきもきすることが多い。
今後娘が飛び込む世界、特に小学校、中学校という狭い世界においては、娘には否が応にも「女の子の世界」が付いて回るだろう。ひとくくりに女の子=陰湿だとか、女の子=排他的だとか言うつもりはない。けれど、誰もが持つ陰湿で排他的な部分が、女の子の世界の中では力を持って、表面化しやすい。しかも厄介なのは、その狭い世界が、とても閉じられているということと、彼女たちにとってはその世界が全てだということ。そんな世界で、娘がトラブルに巻き込まれ(あるいはトラブルを起こし)被害者になったり、加害者になったりしないために、私にできることはなんだろう、とよく考える。
私自身、女の子の世界が最高に居心地の良い時もあれば、その世界に存在しているだけでなんとなく苦しい、という時期もあった。30年以上「女」をやってきたからこそ分かることが、今となっては沢山ある。
だから、不器用でまだ何も知らない娘(幼児だから当然なのだけど)に、自分の経験値、経験知を全て与えたくなってしまうのだ。なんともお節介なおばさんである。そういう人、職場にいたけど、本当に嫌だったのになぁ。
人間関係なんて、色んなトラブルがつきもので、その都度乗り越えて、学んで、自分の居心地の良い場所を見つけていけば良いだけの話。親がとやかく口を出すなんて大間違い。そう分かっているのに、なぜ私は娘を叱る時、「女の子の世界」でうまくやっていくアドバイス的なものをこっそり織り交ぜてしまうのだろうか。
私に叱られて泣く娘を見て、私はハッと振り返る。今私が叱った言葉や意図の中に、「叱る」という以上のものは無かっただろうか。苛立ちに任せて、言わなくても良い一言を言わなかっただろうか。必要以上に冷たい態度をとってはいなかっただろうか。注意深く振り返れば振り返るほど、私は娘を叱ったのではないと感じる。私は娘に、自分の焦りをぶつけていた。
そんな瞬間が何度か重なり、私はほとほと自分が嫌になっていた。自分は娘にとって、良い影響を与えられる母親であると、自信をもって言えない。本当ならば、箱に入れて大事に大事にしまっておきたいとすら思っているのだから、私は一歩間違えればヘリコプターペアレントだ。
ちなみに、息子に対してはあまりこういった感情を抱かない。それは、生き物として謎すぎるというのが大きな理由になっている。息子という生き物を宇宙人に例える母親がいるが、あれは本当に言い得て妙だ。
好奇心に勝てず、自ら危ないことをして、怪我して泣いたり、どれだけ怒られても懲りずにふざけ倒したりするところは、怒りを通り越していっそ清々しさを感じるほどだ。耳元3センチの所で「危ないからそこから飛んじゃダメ」と言っているのに、わざわざ回転をつけて塀から飛び降りる生き物である。叱ろうと思っても、つい吹き出してしまうこともしばしば。生物として違いすぎるから、正直で単純な気持ちをぶつけることができるのかもしれない。
「こらー!ダメって言ったでしょー!いい加減にしなさーい!」と怖い声で怒鳴ってしまうこともあるけれど、そうやって腹が立ったら、私は腹が立っていますよ、という思いを声に乗せて怒鳴れることの、いかに健全なことか。加えて、息子は怒鳴られて泣いたって、3分後にはケラケラ笑って同じことを繰り返す。私もまた怒鳴る。お互いメンタルが強くなっていく。
これが娘となると、全然違うから困ってしまう。
怒鳴ったりなんかしたら深く傷つくに違いない
お友達に怒鳴る子になったらどうしよう
とかなんとか、いらんことを考えてしまう。女の子だから、男の子だから、と言う理由で育て方を変えたくなんかなかったのにな。
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もう一度言う。私は娘に「花の美しさを純粋に楽しめる女の子になって欲しい」と思っていた。
それは私自身に、純粋に花を楽しめない苦しい期間があったから思うこと。あんな苦しい思いを、娘にはさせたくなかった。
そこへ現れた、例のガーベラとかすみ草である。
家に帰ると、私はすぐさまそれらを花瓶に生けた。切り花を長持ちさせるためのテクニックや薬剤は世に溢れていて、私は持てる全てを施した。
少しだけ疲れたように見える花たち。それでも、バケツではなく花瓶に生ければ、とても立派に綺麗に見えた。
悩みや心配で押し潰されそうな自分の姿を、この花たちに投影したのかな、と思いかけて、首を振った。そんなの、この子たちに失礼すぎる。
ただ、棚の上でピカピカに咲き乱れる花たちが、今日はやけに眩しすぎて、それらをどうしても手にとることが出来なかっただけだ。
そうこうしているうちに、子供たちが幼稚園バスに乗って帰ってきた。飾られている花が変わると、いつも必ず反応してくれる子供たち。リビングに入ってすぐ、
「ガーベラだね!」と息子が言った。
「お母さん、今日のお花、ちょっと枯れてきてるよ」という娘。
さすが、よく見ている。娘はちゃんと花が好きな子に育ってくれているのだろうか。
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4日ほど経って、花たちにさすがに終わりが見えてきた。茎がしなり、花が下を向き始めたので、茎を短く切って小さめの花瓶にうつしたけれど、花の色はもうほとんど褪せていた。かすみ草は全体的にカサカサとして、茎が茶色くなってきた。
やっぱり、あまりもたなかったな。
そう思って花瓶を手に取った時、娘が私の元へ走ってきた。
「お母さん、この花捨てないで」
すごい力で花瓶を奪おうとしてくる。
「え、なんで?」
「いいから。お願い、捨てないで」
娘はおもちゃでもなんでも、捨てるということを嫌がる。仕方がないので、明日幼稚園に行っている間に捨てよう、と思って、花瓶を置いた。
その夜。
夕飯の支度が終わり、子供たちを呼ぶと、娘が食卓にガーベラを持ってきた。私はそれを見て度肝を抜かれた。
ガーベラの花びらが、どピンクに染まっている。マニキュアが塗ってあるのだ。
週末娘が夫に買ってもらった、プリキュア変身セットのマニキュア。ショッキングピンクの、ラメが入ったやつだった。それが、一つ一つの花弁に丁寧に塗られていた。
しおれて元気のない葉には、ピンクのハートマークのシールが貼られている。
すばやく頭の中でいろんなことを整理した。
生きている花に、こんなことをして良いのか?
せっかく頼み込んで買ってもらったマニキュアをこんなことに使って、夫に怒られるんじゃないか?
ていうか私が怒るべきなのか?
そんな気持ちを、娘の一言が吹き飛ばした。
「あのね、お母さん、ピンクのお花がだいすきでしょう?お母さんが大事にしてるピンクのお花、元気にしたかったの」
その瞬間、よく分からない気持ちが炸裂して、私は泣きながら笑った。そうかそうか、と言って、娘を抱きしめた。
ねえ、ピンクの花ばかり買うのは、あなたが好きな色だからだよ。
お花が元気を取り戻したみたいで嬉しいよ。お母さんも元気になれた気がするよ。
そこから、夕飯をしばらく後回しにして、娘と二人でお花元気になーれ作戦を決行した。花が下を向かないように、花のすぐ下をリボンで結んで支えた。かすみ草の茎には、大きめのビーズを通してみた。花瓶の中で咲くガーベラとかすみ草は、なんだか少し誇らしげに輝いていた。
花を純粋に楽しめる人になってほしいだなんておこがましいことを思っていた自分を恥じた。娘は娘の目で、心で、きちんと花を感じていた。娘なりの方法で、花を楽しんでいた。花を楽しむ方法なんて、誰かに教わるものじゃなかったんだ。私が心配しなくたって、娘はちゃんと、自分で考えて成長している。心配するんじゃなくて、信頼すれば良かったんだ。
私はその日、何日かぶりに、100%純粋な気持ちで娘に愛情を伝えられた。
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心配事は、子供に関することばかりじゃない。私はまた日々モヤモヤを抱え込んでは、引きずって、時々それらを手放しながら、生きていくのだろう。それでも私の気持ちは、いま軽い。すべき事が、少しだけ明確になった気がするからだ。また迷ったら、花を飾ろう。今度は娘と一緒に花を選ぼう。
ほんの少し上を向いた気持ちを胸に、部屋を見渡す。子供たちが遊ぶその奥。ラメとビーズでキラキラ光る、ガーベラとかすみ草が見える。私は心の中で呟いた。
「あなたはまだまだ大丈夫だよ」
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