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心に真っ直ぐ生きること。
「君の名前で僕を呼んで」
この映画見たことありますか?
マイノリティ、バイセクシャル、今の世の中ではだいぶ認識が広まった今だからこそ見てほしい映画。
この映画は17歳の少年と、大学院生の青年との同性愛、いいや、甘くて、切なくて儚く、美しすぎる、愛の物語。
北イタリアの果樹園で暮らす少年のもとにインターンとして大学院の青年がくるのだが、映画の最初から最後までずっと見ていられる素敵な風景と、イタリアのロマンチックさを感じられる言葉の選び、そして国による同性愛への偏見、価値観の差も垣間見える繊細さ。
多様性を認めよう。多様な価値を大切に。
最近よく聞くフレーズだけど、
うん、確かにそうだよね。大事だよね。
いろんな考え方があって、誰がどんな人を好きになろうと、どんなものを大切にしようと、
それは否定されることでなく、誰だって受け入れられるべき。わかってる。わかってるよ。
だけど、もし自分の子どもがそうなったら、と思うと今みたいにすんなりと受け止められない自分がいる。
多様性、大事だとわかっているのに
これまでの自分にとって普遍的な価値を多様化することってすごく難しくて、複雑で、受け入れられなくて、信じがたい。
この世の全ての人が、多様性だからと全ての物事をすんなり受け入れて物事が進んでいくこと、それはこれまでの普遍的な価値や人類の営み、素晴らしさ、美しさ、尊さが変容していくのではないかと怖さを抱いてしまう。
私はまだ完全にに同性愛を心から認められない節があるのだと思う。
この相反する気持ちを持ちながら、
それでもどうあるべきか、どう向かい合っていくか、考えていくことが
これからの社会で大事なことなのかも。
とはいえ、この映画の2人の愛し合う時間は、美しくて尊くて、儚い、胸が苦しくなる、
「愛する」とは何かを教えてくれるものだ。
「君の名前で僕を呼んで」
愛する人と自分は半身なんだ
究極の一体感、唯一無二の存在である
この2人の関係にぴったりな愛情表現だと思う。
異性愛、同性愛に関わらず、
人間の愛の真髄をこの映画では見れたような気がする。
自分の片割れとなるような
愛する人がいること。
そしてねもうひとつ。
心に響く場面があった。
愛する2人が離れ離れになり傷心するエリオに彼の父親が静かに伝える言葉。
「ひとの心と肉体はたった一度しか与えられないものなんだ。そして、そのことに気づく前に心は擦り切れてしまう。今はただ悲しく辛いだろう。だが、それを葬ってはいけない。お前が感じた喜びをその痛みとともに葬ってはいけない」
息子が同性を愛し始めていることに気づきながらも、そんな息子へかける、慈愛と深い理解を含む父親の言葉。
先に生きた人間の優しい配慮や、後悔すら受け入れる繊細さも見えた。こんな風に受け止められる大人になりたい。
認められなくても、許されなくても、
愛されなくても、忘れられても。
その瞬間に感じた、ときめきや喜び、
苦しさや痛みを無駄にしてはならない。
それが私たち人間にできる
幸せとは、愛とは何か、追求していく
人生、心の豊かさなんだと思う。
私たちは歳を重ねるごとに、
立ち直る方法を学んでいく。
社会でうまく生きていくために
些細なことで動じない、気にしない術を手に。
それはたくましさとも言えるが、
感受性の退化とも言える。
歳を重ね、心を削っていく。
いつのまにか何も感じなくなるのだろう、感情を無視していくのだろう。
それってすごく惜しいことだよね。
「喜びや痛みを葬るな」
大切なものを遠くに置いていってしまった時、
社会の波に飲み込まれ心がロボット化した時、
この言葉、映画を見てまた心との向き合い方を気づかせてくれると思う。
心が疲れたらこの映画に一度出会ってほしいです。