見出し画像

仏教における煩悩と輪廻

仏教はインドの古代宗教であるバラモン教、そしてその後発展したヒンドゥー教の後に誕生した宗教であり、バラモン教やヒンドゥー教の流れを汲んでいる宗教である。開祖はゴータマ=シッダルタであり、彼は紀元前565年から483年ごろに人物であると言われているが、その詳細の年月に関しては諸説ある状況である。彼はいわゆる王族の息子であり裕福な生活をしていたが、29歳の時に出家をして苦行を繰り返し、35歳で悟りを開いたと言われている。その後亡くなるまで、弟子に教えを説き続けた人物である。彼のことを「仏陀」や「如来」と呼ぶこともあるが、正式名称は釈迦牟尼世尊(略して釈尊)である (橋爪, 2001)。

釈尊の教えの一つに三法印がある。これは、万物は常に変化してやむところがない、という「諸行無常」、すべてのものは因縁によって生じたもので実態がない、という「諸法無我」、そして迷いの火を吹き消せば心の平静が得られる、ということを意味する「涅槃寂静」の三つの概念によって構成される。これに、この世の本質は苦悩と煩悩であることを意味する「一切皆苦」を加えると四法印となる。日本語には四苦八苦という言葉があるが、これも仏教用語であり、この世の苦しみを示した言葉である。具体的には、四苦が生、老、病、死の四つの苦しみを意味し、八苦とは四苦に加えて愛別離苦(大好きな人を失う)、怨憎会苦(嫌な奴と一緒になる)、求不得苦(ほしいものが手に入らない)、そして五陰盛苦(色・受・想・行・識の五陰から生じる心身の苦悩)の四つの苦しみを加えたものである。そして、仏教ではこのような苦しみに満ちた、一切皆苦が現世を示したものと考えるのである。この意味で、仏教は現世に対してとても悲観的な態度をとっていると言える。

こうした苦しみの根源は煩悩であるとされる。例えば、おいしいものを食べたい、恋人がほしい、お金持ちになりたい、といったことは全て煩悩の例である。よって、仏教では、煩悩を取り除いて現生での執着をなくし、解脱することが究極の目標となり、これを悟りという。悟りを開くことができれば人は煩悩を取り除くことができている状態に達し、涅槃寂静の境地に達する。この意味で、仏教における修業は煩悩を取り除くためのものであり、仏教における善とは煩悩がない状態であると考えられる。

煩悩を取り除くための方法論としては四諦八正道がある。四諦とは、この世の本質が苦であることを理解すること(苦諦)、苦を集めおこすもの、すなわち苦の原因は煩悩であることを理解すること(集諦)、苦の生ずる順番を逆にたどってその原因をなくすこと(滅諦)、以上を日常に実践すること(道諦)によって構成される。一方、八正道とは正見(四諦の真理などを正しく知ること)、正思惟(正しく考え判断すること)、正語(嘘、無駄話、粗暴な言葉などを避けること)、正業(正しい行為をすること)、正名(正しい生活を送ること)、正精進(正しい努力をすること)、正念(正しく注意を向けること)、そして正定(正しい精神統一をすること)の八つを意味しており、ここでの「正しい」とは、両極を見極め、中道を実践することを意味している (橋爪, 2001)。

では、煩悩を取り除けない場合はどのようになってしまうのであろうか。仏教では煩悩があると輪廻すると言われる。輪廻とは簡単に言えば生まれ変わりであり、人や動物の生命が無限に転生をすることを意味している。例えば、キリスト教であれば人は最後の審判の結果、永遠の生命を得るもしくは地獄に堕ちるということになる。しかし、仏教の場合、輪廻の結果、ずっと生まれ変わりをすることになる。ある時は人間に生まれ変わり、ある時は家畜に生まれ変わるかもしれない。生まれ変わる世界のことを六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、そして地獄道)と呼び、衆生(生きとし生けるもの)が死んだとき、業(生前の行い)が良ければより上の道に生まれると仏教では考えられている。そして、煩悩がある場合、この六道をぐるぐるとめぐることになるのである。煩悩は苦しみの原因であるから、輪廻転生を繰り返す限り、輪廻をするものは永遠に苦しみを受け続けてしまうことを意味するのである。よって、解脱とは輪廻から脱し、永遠の死を得ることと考えられるかもしれない。

Reference

橋爪大三郎 (2001)『世界が分かる宗教社会学入門』筑摩書房.

いいなと思ったら応援しよう!