どっちが大事? 広く浅くvs せまく深く
広く浅くvsせまく深く どっち派?
保護者の方と話していると、せまく深くの方が大事!という人が多いように思います。
が、個人的な結論。両方めちゃくちゃ大事。
理由もかいつまんで先にまとめちゃうと、
広く浅くの利点と欠点
利点:広範な感覚、トータルのバランス感覚が育つ説
欠点:個々の質をそこまで高められない
せまく深くの利点と欠点
利点:洞察が深まり、他分野への応用につながる説
欠点:経験の幅がせますぎる=経験値少なすぎて基礎感覚が育たない。
ちなみに出典もなんもない単なる個人的な見解です。
このテーマを書こうと思ったきっかけ
そろばん教室に来ている子たちは千差万別。その中で、数の感覚のある子とない子のちがいに注目しています。
で、ピアノの練習をしてふと自分のこととして痛感したことが何らかあてはまるかなと。
つまり、「音感のない自分がどうやって音感をつけられるか」という切実な問題と同種ではないかと思ったのです。
結論はもう述べてしまったので、ここから先は具体的な話、そう思うに至った経緯の紹介になります。
ひたすらせまく深く、やりたいことだけに特化した結果・・・
大学3年の夏に突然ピアノを始めました。
正確には、小1のころにやっと両手で弾けるまでくらいやってたので再開した、と言っていいのかな。
当時なんとなく感じていたこと。
自分は、「過程」を楽しめるものでないと取り組む気になれないということ。
つまり、学習・練習自体を楽しいと感じないものは自分にはできない、向いていない、と。
母がピアノの先生だったので、ちょっとだけアドバイスをもらって、あとはただただ一人で弾けるようになったら嬉しいなという曲をひたすら練習していた。
アドバイスとは、これだけ。
「指の独立」のためにスタッカートで練習するといいよ
実家に帰るとずーっとピアノの練習にふけり、大学でもなぜか学内のあちこちにあるピアノで練習三昧。スタッカートで練習していると面白いように弾けるようになるのが楽しすぎてサルのようにピアノばかり弾いていた。
突如ピアノを再開するきっかけとなったのが、友人が弾いて聞かせてくれたビリー・ジョエルのHonesty。
とりあえずそれをやって、ある程度弾けるようになったらベートーヴェンのエリーゼのために。ABC形式で、有名なミレミレミシレドラーと片手ずつ交互にゆったりとした曲調のAパートのあとにガラッとスピード感のあるBパート。
絶対できなさそうなことができるようになる嬉しさ
それまで速いパッセージをひいたことも音階すら弾いたこともなかったので、こんなの弾けるようになるのかな?なったらすごすぎるな・・・
と思いながらも練習しているとあら不思議。
え?弾けるかも!
1日こもって練習したら別人のように弾けるようになってしまった。
これ、続けてたら全部ひけるかも!
Cパートはもう何がどうなってるのかわからないかっこよさ。今見るとめちゃくちゃシンプルだけど(笑)
弾けると思ってもみなかったエリーゼのB,Cパートがそれなりに形になったことで調子に乗って、そこからは無謀な挑戦ばかり。
お気に入りのレコードの曲たちに挑みます。
秋にベートーヴェンの悲愴にとりかかり、楽しすぎて全楽章
調子に乗って冬に月光にとりかかり、楽しすぎて全楽章
さらに調子に乗って春にショパンの革命を始め、楽しすぎて夢中に。
5月にスクリアビンのエチュード42-5とアルバム・リーフ45-1に着手。
その後もひたすら弾きたい曲ばかりに取り組んで、「展覧会の絵」みたいな絶対弾けっこない、どうやって弾いてるのかさっぱりわからないような曲でも練習してるとそれなりに形になるのが楽しくて、自分の中では奇跡の連続みたいな感じ。
いつまで経ってもできないことの壁
一方で、できないことの壁も強く感じていました。
「音感」「初見」「読譜」です。
これらはそもそも経験値が少なくてできないのは当たり前。
というかもともと曲を弾くのもできなくて当たり前。
ところが、これまでずっと、とにかく同じ曲の一部分を取り出して集中的に練習するのを繰り返してなんとか弾けるようにしてきた「自己流」の「成功体験」が身に沁みついてしまって、そのやり方である程度形にできないと気が済まなくなっていました。
初見の曲は当然まともに弾けません。フラストレーションを感じます。
「できない」ままなのが許せない、「できない」を「できる」に変えたい、さらには自分なりに「上手にできる」まで持っていかないと気が済まないのです。
で、弾けるようになるために練習してしまうのです。
これがよくない。
弾けないままにしなくてはいけない。
「できないまま」を認めることの大事さ
それに気づかせてくれたのが、尊敬する先生のレッスン動画に添えられたコメント。
そっか、完成度は低くても、エッセンスを感じ取れたらあえて次にいっちゃう。なるほど!
ちなみにバッハのインベンションとシンフォニアは15曲ずつ計30曲。バッハが音楽学習者のために教育目的で書いた曲集で多種多様な調性と曲調の美しい曲ばかり。
浅く広く経験しながら、完成度はさておきエッセンスを感得する方に重点を置くという意図には目からうろこでした。
浅く広く、ちゃんと弾けないながらも全曲やってみるっていうのもめちゃくちゃ大事だなと。
多様な経験から培われる感覚
当たり前だけど経験してないことはわかりっこないし感覚を持ちようがないですよね。
感覚って、圧倒的な経験値から培われるものとも思います。
それがいろんな角度から、多様であることが大事。
いつも同じやり方のせまい経験しかしてなければきっと感覚は育たず、それしかできない状態にとどまるのかなと。
数の感覚もいろいろな角度からの経験がつながって総合されて高まっていくのだろうと思うのです。
「できない」「中途半端」を許容し、広く浅く経験することで得られるものもとても重要なんだと気づかせてくれた一言でした。
もうひとつの気づき ~成功体験の怖さ~
大人になってから始めたピアノはあくまで趣味。
人が聴いたら笑っちゃうようなレベルでも自分にとっては雲の上の曲に取り組めるというだけであまりに強烈な成功体験でした。
ゆえに、そのアプローチから外に出られなかった、成功体験が足かせになっていたんですね。
「つまらない」を「楽しい」に変えるアプローチ
大人になってからでも音感をつけられるのか、自分で実験をしてみようとあえて「できない」まま次々に新しい曲の譜読みをする毎日。
やっぱり過程、練習そのものを楽しめないとフラストレーションがたまります。
「できない」現実を思い知るばかりの練習は、なかなかに辛い。
でも、「反射神経ゲーム」「先読みゲーム」と割り切って、3回~5回の譜読みで次に行くという無理ゲーなルールを課すと、それはそれで制約の中での進歩を楽しめたりします。
数日の中でもわずかな変化を感じるので、まったく音感がつかないとは思えない。こどもとちがって習得が遅いので、数年間実験してどんな変化が見られるか、結構楽しみです。
日々、そろばん教室でこどもたちから学ばされてます。