【読書雑記】牧野邦昭『経済学者たちの日米開戦:秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く』(新潮社、2018年)

 少し前、経済史の研究者とともにわが国(とりわけ北海道)の石炭産業の衰退をめぐって、数年間にわたり議論を交わしたことがある(この成果が、杉山伸也=牛島利明編著『日本石炭産業の衰退:戦後北海道における企業と地域』(慶應義塾大学出版会、2012年)として実を結ぶ)。わたしは、もともと経済政策としての地域振興政策に関心があり、たまたま北海道の産炭地に生まれ育ち土地勘があったこともてつだって、当時経済学部教授であった杉山伸也先生(現・名誉教授)にこのプロジェクトへの参加を勧められた。そして、おそらく、いろいろな意味においてわが国の産炭地振興政策の恩恵をもっとも享受している(かもしれない)人間の一人であることの自覚が、この本に小論(同書「第3章 産炭地域振興臨時措置法の形成と展開」)を寄せる契機にもなった。
 数年におよぶ経済史家との議論(というか雑談)は、わたしの脳裏に多くの好奇心と問題意識の種子を植え付けてくれたのだが、そのひとつが戦後の経済政策・エネルギー政策に多大な影響を及ぼした有澤廣巳という経済学者についてであり(「傾斜生産方式」の主唱者)、戦時中、(治安維持法違反で検挙され保釈中であった)有澤が関わった陸軍の「秋丸機関」についてである。
 「秋丸機関」は、陸軍省戦争経済研究班、対外的には陸軍省主計課別班の通称である。総力戦においては各国の経済力がその前提となるとの認識をふまえ、陸軍経理局の秋丸次朗中佐のもと、気鋭の経済学者が「動員」され、日本はもちろん、英米、独逸など主要国ごとに担当を割り当てられ、それぞれの国の国力がどの程度戦争に耐えうるか(抗戦力)について分析・検討が行われた(たとえば、日本班は中山伊知郎一橋大学教授、英米班は有澤廣巳東大教授、独逸班は武村忠雄慶大教授)。その成果が、『英米合作抗戦力調査(其一)』および『同(其二)』や『独逸経済抗戦力調査』となる。当然、そこには、どんなことが書かれていたのかが問題となるのだが、これらの報告書は、有澤の記憶によると「国策に反する」ものであったためにすべてが焼却されたといわれていた。しかし、有澤の死後、平成3年に報告書のうち1冊が「発見」され、そこには英米の経済抗戦力の巨大さが示されていたことから、秋丸機関の評価として「経済学者が対米戦の無謀さを指摘していたにもかかわらず、陸軍はそれを無視して開戦に踏み切ってしまった」との理解が通説として定着することとなった。
 だが、本当に陸軍という組織は非合理で、情報を軽視する傾向を持ち、都合の悪い情報を握りつぶしてしまったのだろうか。それとも、陸軍は、新たに見つかった報告書に指摘された経済学者たちの「秘策」を信頼し、開戦に踏み切ったのだろうか。いや、報告書には戦争遂行の困難さが指摘されていたにもかかわらず、別の形で「解釈」されて開戦への判断材料とされてしまったのか。本書は、この通説にたいし、新たに発見された資料を踏まえた秋丸機関についての研究とその報告書の検討をとおして、「なぜ日本の指導者たちは、正確な情報に接する機会があったのに、アメリカ、イギリスと戦争することを選んでしまったのか」を考察する(2018年8月10日記)。

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