金木犀の香らない朝のこと
「よし」
朝ごはんを終えてリップを塗り直したところで、アイシャドウをしていないことに気がついた。決して広くはない洗面台に立つと、横の滑り出し窓からひんやりとした風が吹き込む。季節の変わり目に胸がそわそわと落ち着かなくなるのは、誰かを思い出すからだ。
グラデーションになっているパレットから数色を選び、順にまぶたに乗せていく。目尻の三角ゾーンに明るい色を持ってくるのが最近のトレンドだと何かで見たので、思い切って濃いめのピンクを入れてみた。こげ茶色のラインを軽く跳ね上げ、仕上げにイヤリングをつける。駅ナカの雑貨屋さんで一目惚れだった、30%引きで800円のイヤリング。半透明の満月の中で、キラキラと虹色の筋が反射している。足が長く、耳元でゆらゆらと揺れるところもお気に入りだ。
昨晩のうちに作っておいた弁当を冷蔵庫から取り出す。箸が入っているのを確認して、バンドをかけた。今日は、講義はないけれど、課題のために大学へ行く。朝晩が冷え込むこの季節に物足りなさを覚えるのは、この街では金木犀の香りがしてこないからだろう。些細だけれども確かな空白が、去年までと違う土地で生きているのだということをひしひしと感じさせる。
玄関を出るとネイビーのワンピースが暖かい日差しに包み込まれて、その深い色の中に微かな表情を覗かせる。長い裾を巻き上げた冷たい風にそのまま乗り込み、アパートの階段を降りた。日陰は寒いので日向を選んでアスファルトの海を泳ぐ。駅へ向かう足と裏腹に、目の前の時間がぱらぱらと巻き戻されていく。
ダサいと不評だった制服の中で、唯一女の子たちから支持を得ていたのが合服だった。長袖ブラウスにピーコックグリーンのベスト。スカートは膝丈で、青地に白の、チェックというより目の大きな格子柄と言ったほうが正しいような、変わったデザインをしていた。
私もあの制服を着られる、新緑が眩しい初夏と金木犀が香る秋の始まりが好きだった。早く合服に着替えたくてあるいは合服から着替えたくなくて、多少暑くても腕まくりをしたり肌寒い電車の中で校則違反のパーカーを羽織ったりして、衣替えの期間ギリギリまで合服で過ごそうと試みた。色付きの髪ゴムすら許されなかった私の高校では、合服のブラウスにだけ許される腕まくりがとても垢抜けて見えた。
女性専用車両に揺られながら、この都市の高校生だったらと空想してみる。ここには美術館も映画館もあちこちにあって、電車賃も安い。ロフトには一生かかっても使い切れないほど色んなコスメが置いてあって、プレゼントに良さそうな小洒落た雑貨を見て回るだけで、あっという間に時間が潰れる。テレビで紹介された店があの辺りにあったなと思えることすら、通学路にコンビニひとつない山奥ではありえないことだった。
あの山の上の高校に何もなかったわけではない。校風も先生も私には合わなかったけれど、それでも悪いことばかりじゃなかった。憧れだった生徒会に入って、文化祭の運営をした。私が長として壇上で閉会の挨拶をしたときのことを、おばあちゃんは三年が経った今でも昨日のことのように話してくれる。運動会の前日に雨が降って、運動部と一緒に泥んこになりながら水抜きをしたことだって覚えている。球技大会で初めて入った卓球場とテニスコート。大掃除のとき掃除用具倉庫でバインダー片手に竹ぼうきや竹かごを貸し出したこと。誰もいない真冬の朝の底冷えするような体育館。
季節の変わり目に吹く風は、もう戻れない時間に心だけをさらっていく。何かを見たときに思い出すものが、自分にとって何か特別な意味合いを持つものが、増えれば増えるほど人生は彩り豊かになっていく。いつか歩いたあぜ道に、花が咲く。