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ちょっと整理しよう!

マゾは今でも私に会うと、私のほうを見て「綺麗です、可愛い」って絶対に口にしてくれる。昔はそれが染みるように嬉しかったのだけど、今の私は卑屈になってしまっていてその言葉をハッキリそのまま受け取れない。

私はとてもいい職場にいまいくつか拾われていて、そこではみんな私を可愛がってくれているような気がする。「らぶちゃんは(さんは)、居るだけでいいんですよ」みたいなそんな空気感を肌に感じるし、実際にそう口にして言ってくれる。

この半年間は、もう辛くてそういう言葉を拾うことすらできなくなっていた。言われても、「嬉しい」とかそういうのを思えないのだ。「私なんて、何にもできない、こんなに格好の悪い人間なのに」とさえ思う。


去年と比べてこの自己認知の変わりようは、明らかにおかしいなと最近常日頃考えている。


冒頭でも言った通り、マゾを始め、今でも付いてきてくれている人たちはみんな「どうやったらこんなに素敵な女性になれるの」とまで私に言ってくれる。

私はこれを聞いて「私が変態女だからそう思うのかな」と思っていたのだが、多分違う。

もう本当に自己認知が分からなくなっていて、去年のマゾからもらった手紙を見返すと「僕はらぶさんが、可愛くて優しくて、賢くて、思いやりがあるのにドミナントなところが好きです」と書かれていた。

確かに今考えると、「変態なところ」だけではなくて、みんな私の全体が好きなんだろなっていう印象を受ける。変態性や、主導権を握るところ、優しくしてくれるところ、このすべての塩梅がちょうど良かったのかなと。

また「賢くて」っていうのも、最近周りの人に言われれば言われるほど、自己認知と乖離していた。「賢い」って他人から言われても、その言葉を一切信じることができなくなっていた。なぜなら、今の私の中の私は、馬鹿で無能なのだ。書いていて悲しくなってきたが、もう少し踏み込みたい。

特にこの点については、シェアハウスの同居人が関与しているように思う。

この同居人は自分に本当に厳しい人で、40℃の熱があっても、余裕と白を切る。自分の疲れに無頓着な人間なのだ。いや、多分この「自分へのストイックさ」を評価されたい人間なのかな。よくはわからんが、そのストイックさは、周りの人間にも押し付けが激しかった。

「らぶは気分屋で何もできない、身体が弱くてすぐ体調を崩す。頭が悪い」暗にそういうことをずっと言われていた。

ああ、ここだ。そうだ。私の自己認知が去年に比べて大きく変化させられたのは多分こいつのせい。

(追記)同居人は自分よりも努力できない人を下げることにより、自分の評価をあげようとしている。それだけ他者からの評価に飢えているのかもしれない。

お互いに褒め合ったり、気を遣い合うというバランスを同居人が常に崩しにかかってきた。「私は正しい、お前は間違っている。認めてほしければ、私を論破してみろ」そういった態度を同居人が取り続けたため、私は次第に「自分が悪い」と思うようになっていった。

同居解消の話が進むにつれて、私は職場で初めて泣いてしまった。色んな人に私は優しすぎると言われたのだ。でも友達だから、ひどいことをされても….

いま書こうとして、私は結構ひどいことをされていたのかもしれないというのが引っかかった。というか、そうずっと私は主張し続けてきたではないか。「こんなに同居人がひどいことを言う」って、周囲の人に言い続けた。

同居人の性格が悪かったのに、それを自分の性格のせいだと転換してしまっていた。一体どこからこんな変な話になっていたんだ。


読んでいる人には申し訳ないけど、今こうやって書きながら整理をしている。わけわからない文章になっていても、多少勘弁してほしい。


みんなのことを想って、掃除や家事を率先してやってきたのを、全部同居人の我儘で壊されていたのをいまきちんと認知した。それは私の性格が「優しすぎるから」ではない。

最近おさーんにも「君は同居人としては、めちゃくちゃいいやつやねん。相性が最悪だったわけ」と言われたのを思い出した。まさしくその通りだ。

なんか同居人との話し合いしている最中にも思ったけど、いつしか同居人の発言について「ああこいつモラハラ男と言ってること一緒やな」と感じていた。


なんかあれやな、付き合った男が悪かったとかそういう話だった気がする。なんでこんなにも自分のせいにしてしまったんだろうね。

私は自分の性格が、自分の一番の好きな部分だった。他人に優しくすることが好きで、マゾのお世話をしてあげるのも全く苦じゃない。そんな自分がなにより落ち着くし、好きだった。

昔も何度同じ失敗をしたかわからないけど、その優しさを向ける人を間違えると、こういうことが起きてしまう。どんなに優しくしても、打っても響かない人も一定数いるというのは、これまでの人生経験でよく分かっているつもりだ。優しさの昇華先を今回も間違ってしまったのだ。

私は人に優しくして、喜ばれたい。それが一番の幸せと言っても過言ではない。

だけど世の中の人の中には、今までの辛い経験から、優しさを素直に他人から受け取れない人もいる。そういう人は決まって、自分にも厳しい人だ。そう、同居人のこと。


最近どうもおかしいと思ったのだ。この私が社会のすべてに苛立っていて、悲しんでいて、絶望していて、ずっと鬱だったから。

誰かに優しくされるのも何も響かないし、誰かに優しくしたいだなんてこともあまり思わなくなった。おかしいなって、なんかほんまに季節性の鬱になってしもたんちゃうかなって思っていた。

有難いことに、仕事やミーティングはこんなにあるのに、何も自分で決めることができなくなってしまった。鬱のお客さんがたまに「僕いま鬱の症状がひどくて、何も自分で決められないんです」と言っていたのを思い出す。それと同じ状況だった。

そういうときは決まって、本来の自分の姿を否定しているときなのだ。「自己肯定感が無い」って多くの場合は表現されるけど、あったものが無いのではなく、そもそも本来の自分の姿を否定している状態に陥っているのではないかと思う。

私は同居人と過ごすことで、沢山否定された気分になり、自分が悪いから性格を変えなきゃと思っていた。そんな自分の根本的な性格に疑念の余地がある状況なら、そりゃ誰しも自分で何も選択できなくなる。

実際には、私の性格はいろんな職場で重宝されるし、マゾたちに対してもうまく作用していることがほとんどだったけど、利己的でストイックな同居人とは相性が最悪だっただけだった。

なんか明日からまた人に優しくしてみようって思い始めている。

書いて整理してよかった。この半年間ほどずっと、ずっと、優しい自分を変えなきゃ、もっと人に厳しくならなきゃって無理をしていたのだ。そのせいで、自分の優しさも他人の優しさも無視するようになり、心が殺伐としてしまった。


この同居生活で学んだこともある。私は人が近くにいるだけでだいぶ気疲れを起してしまうことを知れたのと、自分を訓練することができるのを知れたことだ。前者はネガティブな発見だけど、後者はまさに学びだった。

私は日々コツコツ努力をできない人間だ。というか快楽主義者で、結構目先の欲に負けてしまう。それを非常に自分にストイックになれる同居人と過ごすことで、どうにか克服しようと奮闘した。

それで音楽好きな同居人に合わせて、津軽三味線を始めた。洋楽器が円安が進みすぎて高額になり買えなかったため、中学生まで習っていた三味線を始めてみようと思った次第だ。ずっとやりたかったけど、同居人の後押しがあって実現した。

三日坊主なんかで終わるかと思ったが、精神的に辛かったこともあり、そこに救いを求めて練習していると、見る見るうちに上達した。「死にたい」って毎日思いながらでも三味線をいじっている時間だけは少し楽になれたのだ。

それでなんとなく「努力ってもしかしたら、こういう風なただのちょっと楽しいことの積み重ねの"量"なのかも」って思えるようになった。

そこから試験勉強も急に上手くいくようになった。「努力できない」「すぐに逃げる」って今まで自分のことを評価していたのだけれど、「楽しいことを毎日ちょっずつやればいいんだ。なんだ全然苦しくないじゃん。」って思えて

最近はずっとできなかったダイエットもだいぶ上手くいくようになった。なぜか自分を律することが途端に上手くなったのだ。

私は他人にも優しいし、自分にも優しくて、でもそのせいで目標を達成できないことも多かったけど、同居人と生活して明らかに変わった。辛い思いをする価値はあったかもしれない。

そういう何かができるようになるためには「訓練の量」が必要なだけで、例えば今までのテストの点数が悪かったり、何か成績が悪いときって、「私のセンスが無いんだ」とか「私はみんなに"賢い"って言われるけど、本当は馬鹿なんだ」って思ってきたけど、単純に訓練の量だったんだなって。

それを踏まえて振り返ると、同居人に私が努力ができないことや、きつい言葉で当たられて上手く言い返せないことを「能力が低い」と言われてきたのに対し、自信を失っていたけど違うなと思った。

賢いことと、ペーパーテストの点数を取れるのは違う。後者はただの訓練の"量"で測っているのだと知った。


明日からはもっと楽しく過ごせそう。最近接客や人と関わることが嫌で仕方がなかったけど、そういえば私は人に優しくするのが何より好きで、ずっとこういう仕事をしているんだった。

ああ、これも同居人に「妙に優しいのは気持ち悪い」って否定されてきたのを思い出した。それで変えなきゃ、私が変わらなきゃって思ってきたんだった。変える必要なんてないのに。誰にでも分け隔てなく優しく接することができて、とてもよく出来た人間ではないか。自分を褒めてあげたい。


やっぱり困ったときはこうやって書き出してみるべきやな。私はこうやって書くことが何より心を安定させてあげることができる。

また時々、こうして必要な時に帰ってくるね。もっと早く帰ってこればよかった。心の中を全部ぶちまけて、整理するのも悪くない。最初は怖かったけど、こうして書き終わるころには前を向けるようになっている。


明日からは本来の自分自身を取り戻そう。

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らぶ
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