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斑点とグレープフルーツ

なんでだか、シャツには小さな染みがある。
どうやっても思い出せない、今日じゃないかも、この間かも。絵の具を筆でとばしたみたいな、ちいさい染み。

私がそんなことで悩んでいてもみんなは変わらない。だってほら、朝陽ちゃんは今日もキラキラしている。眩しく笑っている。私から「アサちゃん」を奪ったのに、よく笑っていられるものだ。きっと朝陽ちゃんのシャツには、染みもシワも、ほつれも伸びも、何一つないんだろう。なんかうまく言えないけど、ずるい。

私は朝陽ちゃんのこと好きだけど、「アサちゃん」だから好きじゃない。だって、だって私だって「アサちゃん」だ。麻田直、苗字だけど、アサは入ってるから。四月の自己紹介のとき、クラスのみんなの前で「麻田です。アサちゃんって呼んでください。」って言ったのに、みんな朝陽ちゃんが来てから、私のことを「ナオちゃん」って呼ぶようになった。たとえば、わたしの名前が奈緒とか、菜緒とか、奈央とか、そういう可愛いのなら良かったけど、「直」だから。嫌いな訳じゃない、なんか古っぽい。ただ、「アサちゃん」って呼ばれる方が私は嬉しい。


休み時間が終わって、あわただしくなった教室は少し埃っぽい。ドン、と勢いよく坂本くんが机をくっつけてきたから、私は人差し指を挟んでしまった。あんまりいたくなかったけれど赤くなっていたから、先生に言われて保健室に向かった。

教室を出る前、坂本くんが「ごめん、ナオちゃん」って言ったのがいやで、こんな人差し指のことなんてどうでもよくなっていた。保健室の先生が痛さを1から10の数字で表してって言ってきたけど、そんなんじゃ足りないと思った。だって毎日いたい。100くらいいたい。みんな私を「ナオちゃん」にするんだよ。

指を冷やすために、氷がいっぱいに入った袋をもらって、保健室を出た。教室に戻りたくなくて、ゆっくり、ゆっくり歩いた。配膳室の横をすぎるとき、今日の献立が目に入った。春巻き、レタスサラダ、小松菜スープ、わかめごはん。デザートにグレープフルーツが出るらしい。いつもなら嬉しいはずの献立も、なんだか今日は気分じゃない。なんなのグレープフルーツって。グレープのフルーツなら、ぶどうと一緒じゃん。紛らわしいし、ちゃんとグレープフルーツにも新しい名前をつけてあげて欲しい。だってそうじゃないと、かわいそうだから。


教室に入るとき、みんなの視線が一斉に集まるのがいやだ。廊下は静かだから、上履きがこすれる音が目立ってしまって、気づいた人から答え合わせを楽しみにするみたいにドアを向く。

大きな教室のドアを引っ張ると、ほら帰ってきたって顔をして、みんなこっちを向いている。よく見えてないけど、きっとアサちゃんもそう。黒板の前にいた先生が、大丈夫?って聞くのを遮って坂本くんが飛び出してきた。

「ナオちゃん!大丈夫だった?」

私はとどめを刺されたような気がして、しゃがみ込んで泣いてしまった。いたい。顔を拭おうとしたけど、保健室でもらった袋のせいで手はびちゃびちゃで、もっとひどくなった。いま、痛さを数字で表して、って言われたら100でも足りない。1000とか10000かもしれない。体をちっちゃくしていると、どんどんいたくなっていく。背中を撫でる先生の手がいたい。坂本くんの優しさがいたい。教室のみんなの視線がいたい。アサちゃんになれない自分がいたい。

すると、坂本くんがいきなり大きい声を出して「ナオちゃん、ごめん、ほんとにごめん!給食好きなのあげるし、キライなものは全部かわりにもらうから」と言ってきた。坂本くんはみんなから、そんなことで許されるわけない、って攻められていて、それを先生が怒った。私のせいで教室はいやな空気でいっぱいになった。どうにかしなくちゃいけないと思って、私は坂本くんに向かって大きい声で返事をした。

「これから私のこと、アサちゃん、って呼んでくれたらいいよ!」

坂本くんも、先生も、みんなも、ぽかんとして私のことを見ていた。けど、なんでかその視線はいたくなくて、急に人差し指がズキズキしてきた。誰かが「でもアサちゃんは、朝陽ちゃんでしょ」と言ったのが聞こえて、恥ずかしくて泣きそうになったけど、今は人差し指の方がいたい。だけど数字で表したら4くらい、全然大したことないよ。だって、私だって「アサちゃん」だ。なんにもおかしくない。坂本くんは何度も頷いて、その間に言葉の意味を確かめようとしていた。静かな教室には、キュキュ、と上履きがこすれる音はひどく目立つ。その音はアサちゃんがみんなの間をかき分けて、私に近づいてきた音だった。アサちゃんの姿は、雲の間から差し込んできた太陽の光みたいで綺麗だった。でもなんでだろう。アサちゃんはいつもキラキラしていたから、よく見えていなかったのかもしれない。私、アサちゃんにそばかすがあるなんて全然知らなかった。なんにも知らなかった。

アサちゃんは私を床から起こして、ズボンについた埃を払ってくれた。「あんまり動かしちゃダメだよ」と言って微笑んだあと、席に座った。それを合図にするみたいに、私もみんなも自分の席に座っていって、クラスの空気は少しずつ元通りになった。


給食のとき、坂本くんは私に春巻きはいらないかとか、サラダは嫌いかとか、ずっと聞いてきた。さっきの話はよく分かってなかったみたいだった。私は、グレープフルーツを坂本くんに渡そうか迷ったけれど、やめて、春巻きをねだってみた。坂本くんの顔がちょっとゆがむのが見えて、面白かったから「うそだよ」と言って笑った。

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